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現代社会を理解するにあたって、伊藤貫氏が寄って立つ根本的位置の表明である。

それは「ソクラテス、プラトンが正しい」という古典主義なのであるが、前半はその結論に至るための書籍を20冊くらい紹介した。それは英語が読めないと読めない。T.S.エリオットという人をアマゾンで邦訳版はないかと探したが、文学作品の部分ばかりだった。1%のユダヤ人のくだりにお目にかかる機会はないだろう。ここでは、「なんやかんやあってソクラテス、プラトンが正しい、ってなった」程度の理解で良いだろう。

で、後半はカントの説明というか、現象と実在の説明に終始した。で、これもほとんどプラトンの話で、有名な「洞窟の比喩」ということを説明したのである。

洞窟の中で囚われの囚人は、背後のかがり火に映る自分たちの影しか見ることが出来ず、それを世界だと思っている。そこで洞窟が崩れて目の前に現実が開けると眩しくて直視できない。だがその眩しさの中に広がる世界こそ現実なのである。

つまりこの洞窟の中の影というのは、人間の五感によって制限された現象の世界、表面に映る世界、表象である。それに対して、人間の5感を超えた無限の感官があったとして、それが現実を捉えられたなら、それが本当にあるもの、実在なのである。

それで5感しかない人間に実在を知ることなどできない、という話なのである。

実在を知るものは神の感官なのであり、その実在とはイデア界である。

イデアとは、馬という表象に対して、全馬に共通する馬という概念そのものである。その概念の全集がイデア界である。

それでプラトンとしては、本当にそういう世界があって、それを想定しての哲学だったのだろうが、カントの時代にはそれは仮に想定されたものに過ぎず、心の中にあるものか具体的にあるものかは断定していないだろう。

それがアメリカ人は俗物でリスペクトすべき連中ではないことと、どうつながるかというと、アングロサクソン人の寄って立つ哲学は、ジョン・ロックの経験主義、つまり表象で2件以上の因果関係が確認出来たら、それを真とする(再現性=科学的正当性)ということ、ジェレミー・ベンサムの功利主義(最大多数の最大幸福、ただしここではプラグマティズムのご都合主義という意味合いが強い)、ジョン・スチュアート・ミルの自由主義(あまり詳しくはないが、政治思想のリベラリズムの関係ではないか、と思われる)、アダム・スミスの自由経済論(要は市場が適正価格を決める=資本主義万歳)の4つの柱なのであるが、

これら4つを総合すると、表象の事しか考えておらず、日和見的、表面的で刹那的、自分の目の前の利益しか問題にせず、世界を幸福に導く力はない、ということなのである。

真実は表象にはない、真の指標は他にある、ということが言いたいのである。

それで、現代人の思考回路では「じゃあ共産主義か」ってなるのであるが、それはたぶん違う。共産主義はユダヤ人の捏造であって伊藤貫氏が寄って立つ位置ではあり得ないだろう。共産主義も唯物論の一種であり、表象以外のことを認めないという立場である。

で、じゃあ何かというと、たぶん伊藤貫氏は「哲人政治」という概念を持ち出すに違いない。

私の説によれば、選挙権をそもそもセンター試験制にするのである。つまり、試験に合格した人間にしか選挙権を与えない、ということである。これが衆愚政治を回避する一種の方法である。

政治は優れたる者にしかタッチできないようにする、これがザックリとした哲人政治の在り方である。

伊藤貫氏が今後どう言って行くのか注目である。

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