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瓦礫の中…幼少時の原風景が、ウクライナの瓦礫と化した街並みと重なって・・ウクライナ侵攻に想うこと 18

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生まれてから住み始めた場所は瓦礫の中の廃墟

前回の記事でその事を明かしてしまいました。これ、物語ではありません、現実だった出来事です。まあ、昭和33年の日本など、全国どこでも同じようなものだったに違いありません、なので私の住んでいた場所が、ことさら悲惨な環境であったとも思えません。皆同じような境遇だったと思います。

そして記憶の中に残るその原風景、最近毎日思い出します。テレビでウクライナの現状が映し出されるたびにです。爆撃や砲撃を受けて、建物のコンクリートが破壊され、瓦礫となっている様子が映し出されています。私だって普通の人間の1人だと自分では思っていますから、そういう風景をテレビで見る度に、ここの人たちはどうなったんだろう、とか、ちゃんと避難できたんだろうか、とか、人間らしいこともちゃんと感じています。

ですがそれと同時に、幼少時の自分の原風景を思い出してしまいます。ああこれだよこれ、ちょうどこんな風景が自宅(そう呼ぶのも恥ずかしくなる、元倉庫の掘立小屋でしたが)の前に広がっていたんだよなって。テレビで、爆撃痕の町の様子が映し出されると、ああ、私の自宅の前も、爆撃を受けたからこうなっちゃんだろうな、なんて感じたり考えたりしてしまいます。

瓦礫の山の廃墟だった南青山

昭和33年。終戦後13年の南青山、この時期の事を正確に記憶しているわけではないように思います。生まれてすぐの事を覚えているのもなんか不自然です。ですが、生まれてから数年、そこに住んでいましたから、それなりに日々の生活の記憶と呼ぶべきものが、頭の中に残っているのは事実です。

戦時中は軍の倉庫であった建物の中を、左右両側に四畳半の部屋を五つずつ、両側で十戸ほどの部屋を作ったんです。真ん中に廊下がありました。この廊下が倉庫全体を貫く通路になっていたんですが、天井は高かったです。そして照明がありませんでしたので、この倉庫の通路に一歩足を踏み入れると、昼でも真っ暗だったことを覚えています。

通路の端っこに、共同トイレと共同水場がありました。戸別にはトイレも風呂の在りません。本当にただの部屋だけ、箱だけでした。およそ住居と呼べないようなそんな場所で、生活をしていました。今の若者さんたちには想像もつかないような劣悪な状況です。

ですが、生まれてからその場所以外に住んだこともなく、自分の住居以外の情報も、ほぼ全く言っていいほどなかったので・・・あ、これ、少し解説しますと、当時の多くの家庭がそうであったように、我が家にはテレビはおろか、ラジオさえありませんで・・・別に劣等意識はありませんでした。

新聞をとっていたかどうかは記憶がありません。とっていたとしても私には読めなかったでしょう。何を食べて生きていたかもほぼ記憶がありません。覚えているのは、およそ近代的でない通りにいくつか店があり、その一つが豆腐屋さんだったことです。母と共に豆腐を買いに行ったような、おぼろげな記憶はあります。

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「おおきいおばちゃん」と「ちいさいおばちゃん」

我が家の隣に住んでいた方とは親しかったです。我が家は3人家族。当時はまだ両親が健在で、あと私でした。妹はまだ生まれていませんでした。隣には、姉妹が二人で住んでいました。私はこの二人の事が大好きで、よく遊びに行っていました。

遊びに行くと言っても、壁とも言えないような仕切り一つ向こうの部屋に行くだけでしたから、数歩も歩けば済む話でした。このお二人、すでに他界されていますが、私は姉さんを「おおきいおばちゃん」、妹さんを「ちいさいおばちゃん」と呼んで、いつもお邪魔しに行っていました。

このお二人、なんと申しますか、昭和33年、34年、35年頃としては、大変ハイカラな印象の、お洒落な姉妹でした。当時、まだ一般家庭には珍しかった「冷蔵庫」なる文明の利器が、そのお宅にはありました。当然、その家のお食事は、我が家とは比較対象外の美味しさだったに違いありません。

が、何を食べたかの記憶は定かではありません。後から、このお二人がよくお話してくれたことの中に、私がいつも、この冷蔵庫を開けようとするものだから、姉妹は一計を案じ、冷蔵庫の一番上にあるたくさんたくさんの卵に、恐い顔を描いたのだそうです。

さて、いつものように冷蔵庫を開けた私は、たくさんの卵の。たくさんの恐い顔に遭遇し、ワアッ💦💦と泣き出して、逃げ出したんだそうです。そんなこんなを思い出させてくれる、あの瓦礫の中の廃墟の掘立小屋でした。

年齢が30台後半になってから、この時はもう狭山市に住んでいましたが、30と数年前に住んでいたこの場所をもう一度見たくて、訪ねてきたことがあります。そうしたら、南青山のその辺りは、すっかり整理されていて、あの掘立小屋とか、その他、記憶のスミにあった当時の風景を思い出させてくれるものは、ひとかけらも残っていませんでした。

現在の普段の生活で、その当時の事を思い出したりなどはほとんどしないのですが、最近は、ウクライナ情勢が緊迫していて、爆撃され、瓦礫と化した町の様子がテレビで放映されると、その度に思い出してしまうようになりました。

ああ、ああいう場所に住んでいたよなあ、と。

すみません、今日も、とりとめのない回顧録になってしまいました💦ご容赦ください。

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