見出し画像

フィギュアスケートに想うこと 1

YOUTUBE始めました。風間真チャンネルはこちら→https://www.youtube.com/channel/UCSi6XBJoaK2pzgJ_hO0qtXw

今日は、新しいマガジンを作りました。そして、今まで、少しずつしか話題にしてこなかったフィギュアスケートの事、羽生選手の事、これらをまとめて一つのマガジンにしようと思いました。

フィギュアスケートの事を、こうやって正面切って「フィギュアスケートに想うこと」などと見出しを作るのは初めてです。今までは音楽記事の中に少しずつフィギュアのお話をまぜたり、羽生選手が4Aを跳んだ日、とかは、記事にしたりしていましたが。

記事の中でお話ししました通り、フィギュアスケート好きです。フィギュアは芸術だと思います。美しいです。感動します。フィギュアは、音楽が大変に重要な役割を担っています。それもフィギュアを好きな理由です。なんせ私は、本来は音楽屋、それも作曲屋ですので。

今日は、正面切って記事にするのが初回でして、実はどこからお話しようか迷っています。私とフィギュアの出会いあたりからお話しようか、それとも現在のフィギュアのレギュレーションが、やや芸術から離れてしまっている現状からお話ししようか、迷っています。

書いているうちに考えがまとまってきました。初回である今回は「出会い」のお話にしようと思います。「芸術から離れてしまった」現状については、また今度お話ししたいです。やはり初回は「ネガティブ」でないほうが良いと思いまして。昔話ですが、どうか笑って読んでやってくださいまし💦

画像1

私は昭和33年生まれ、つまり太平洋戦争が終わって13年後に生まれました。2~3歳児の頃の記憶が大変朧気ではありますが、まだ覚えています。戦争の爪痕が、まだそこかしこに残っているような時代でした。

日本という国は敗戦国。戦争で国民生活は、疲弊を通り越し、本当に悲惨でした。今現在日本という国は先進国の、それもかなり先端を走る先進国の一つとして世界に君臨しているようです。そのせいか今の若者は、日本という国を、素直に誇らしく思えるようになっているようです。

私の世代、それは無理ですね。戦勝国であるアメリカからの施しものである「脱脂粉乳」を飲んで育った私たちは、日本という敗戦国は貧乏のどん底にあり、アメリカ人に恵んでもらった物資で、やっと命を繋いでいたんです。欧米の先進国と比べ、日本という国は貧困な後進国、というイメージが強すぎて、それを今でもぬぐい切れないでいるんです。

私の幼児期は、戦時中の倉庫を改装した住居(今思えば、とても住居と呼べるような代物ではありませんでした。廃墟ですよ廃墟)で寝起きしました。文字通り、本当に単なる寝起きです。4畳半一間に家族3人。トイレは共同で1か所、風呂はなく、入浴は近所の銭湯に行きました。

これを読んでくださっている方々、上記の廃墟の風景、どこだと思いますか?音楽記事で私の幼児期を読んでくださっている方々ならば私の出身地、お判りだと思いますが、上記の廃墟の風景の住所は東京都港区南青山です。青山といえば、今ではお洒落な街の代名詞のような街のはずですが、私の幼児期の南青山は、上記のような廃墟でした。

ここに2年か3年いたはずです。その後住居は、杉並区和田本町に移りました。昔の、あのエキゾチックな立正佼成会「普門館」がまだあった頃です。普門館を目の前に臨む場所が2番目の住居でした。短期間ここにいました。そして3番目の住居が、中野区でした。

ここでは住居に革命がおこりました。6畳と4畳半の二部屋のアパートでした。部屋が二つもあるなんて、まさしく革命でした。そして、トイレも風呂もついているアパートだったのです。そして何より驚くべきことに、トイレは水洗トイレでした。大革命です!さらに、この住居では、我が家に初めてテレビなるものが出現しました!白黒でしたが(笑)

私はそういう幼少期を送りました。その後東京から四国や九州へと、父親の転勤の度に、日本中を転居し、1971年だったと思います。東京に戻ってきたのは。文京区白山の一軒家の古い古い官舎でした。この時はまだ、我が家のテレビは白黒でした。中学2年、13歳でした。

しかしその年度の冬、1972年の2月に、日本で初めて冬季オリンピックが札幌で開かれました。世界中にテレビ中継されました。私も見ました。その時の映像で、私が覚えている映像は、ただ一つです。知識として覚えている事はいくつかあります。例えば、ジャンプチームが日の丸飛行隊と呼ばれていた事とか。

でも映像として、今でも頭に絵が浮かぶのは、ただ一つです。フィギュアスケート、ジャネット・リン選手の映像です。札幌オリンピックの映像記憶、このジャネット・リン選手だけです。よほど印象的だったんだと思います。だって、今でも覚えているのは、この人だけなんですから。

というワケで、私はきっとこの頃から、フィギュアスケートには特別の何かを感じていたんだと思います。ジャネット・リン選手の他に、シューバという名の選手がいたような気がします。映像の記憶はありませんが。

敗戦後の貧困な国家で生まれ育ち、家庭もおよそ恵まれているとは言い難い家庭で育った私にとっては、白黒とはいえ、テレビという文明の利器の映像で、札幌オリンピックという夢の舞台が映し出され、それを鑑賞できることは、つらい日常から解き放たれ、極めて美しい幻想世界に足を踏み入れる事になりました!

その時テレビに映し出されたのが、あの銀盤の妖精、ジャネット・リン選手でした!中学2年、13歳、夢中になりました。だから覚えているんです。その時生まれて初めて耳にしました。「フィギュアスケート」という単語を。

今日はここまでにします。ジャネット・リン選手が登場しましたので、次回の記事はおそらく、ジャネット・リン選手で埋め尽くされると思います(笑)。

ちなみに今日の「春よ来い」(私のピアノ演奏・清塚信也編曲バージョン)の再生回数は、702回です。このデータ、このシリーズの最後には必ずつける事にします。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?