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私が音楽している理由 2

ひょっとしたら、今までで最もとりとめのない記事になるかもです。実につまらん内容であることには、自信があります(笑)。もちろんスルーがお勧めですが、それでも読んでくれようという方には、本当に感謝申し上げます。私の記事を読んでくださる皆さんの貴重なお時間を拝借し、感謝感謝です。

音楽している理由1にて、音楽に目覚めてしまった(これがそもそもの間違いだったような気もしますが)原因を申し上げました。カルチャーショックって言うんでしょうね、こういうの。今日の記事では、その少し前、中2でのカルチャーショックに至るまではどうだったのかを、書いてみたいです。

小学校の頃から、音楽は好きでした。音楽の授業は楽しみでした。特に好きだったのは鑑賞。クラシックの名曲を聴くのですが、オーケストラの音を聴くのは、たとえそれがレコード再生で、たとえそれが決して最上とは言えない再生装置であっても、至福の時間でした。いろいろな名曲が聴けました。

グリーグのペールギュント、ムソルグスキーの禿山の一夜、この2曲は特に好きで、よく覚えています。オーケストラ以外の曲は、実は殆ど記憶にないんです。唯一覚えているのは、シューベルトの魔王。あの、結局最後に少年は助からず、父の手の中で死んでしまう絶望感が、たまりませんね(病)

クラシックが好きでした。その頃はピアノも習っていました。何故か小学校4年の途中でやめてしまい、その後最大限に後悔することになるのですが・・・クラシックや、ポールモーリアのような穏やかなポピュラー音楽が好きで、あるいはNHKの「世界の音楽」とか、よく見ていました。


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中1、熊本に住んでいました。月に一度、熊本市の主催で「レコードコンサート」なるイベントが催されていました。入場無料。音楽は好きだけど、お小遣いの乏しい中学生の身には、ありがたい音楽イベントでした。ていうか、コンサート会場で、ただレコードを再生するだけのイベントです。

今では考えられないイベントですが、1960年代、昭和40年代の日本では、こんなイベントがあるだけで文化的な都市、みたいな印象でした。終戦が1945年ですから、まだまだ敗戦国の貧しさが残っていて、僕たち日本人の少年少女は「日本は貧しい国」という劣等意識の中で育ったんです。

そんなイベントですが、私はいつも、嬉々としてこのレコードコンサートに通いました。見たこともないような大きくて豪華なスピーカーがステージに並び、聞いたこともないような大音量で音楽が聴けるのです。楽しかったです。あ、当時のスピーカーって、どのメーカーも競って豪華な外観でした。

内容は2部構成。第一部はクラシック、第二部はポピュラー。ポピュラーは、毎回特定ジャンルの特集でした。スクリーンミュージックだったりタンゴだったりです。ある月の事でした。第二部ポピュラーの副題が、「ロックの世界」と題されていました。途端に嫌悪感がわきました。

当時の私は「ロック」というのは、狂気じみた叫び声をあげる、およそ音楽とはかけ離れている代物だというイメージを持っていました。その原因は、毎朝テレビで流れるあるニュース番組の1コーナーで、毎回、それこそ狂気じみた叫び声の曲が流れていました。嫌悪感を持ちました。

というわけで私はその夜、クラシックだけ聴いて帰ろうかなと思いました。でもまあ、せっかく来たんだし、一応聴いて帰ろうと思いなおし、とうとう第二部「ロックの世界」が始まりました。うわあああああ~~~~!!!!雷に打たれたようでした。感動しちゃったんです。素晴らしかったんです。

記憶の限り、プログラムを書きます。1 移民の歌(レッドツェッペリン)2 パラノイド(ブラックサバス) 3 ジ・エンド(ドアーズ)     これだけ並べただけでも、すでに凄い。ロックの名曲ばかりである。更に、4 長い夜(シカゴ)うわ! 5 原子心母(ピンクフロイド)わわあ!!

雷に打たれました。お小遣いの乏しい中学生でしたが、移民の歌と長い夜は、時期をずらしてシングルを買いました。お小遣いを充分貯めてから、満を持してピンクフロイドの原子心母のアルバムを買い求めました。自分で買った、初めてのレコードでした。

当時私の家には、ステレオがありませんでした。何とかしてレコードを聴きたい! そういえば私が幼児期に、両親は17センチのシングルレコードで、いつでも夢を、とか、上を向いて歩こう、とか、その他童謡なんかを聴いていたのを思い出しました。何かレコードをかけるものがあるはず。

見つけ出しました!小さな小さな電気蓄音機(当時はレコードプレイヤーの事をそう呼んでいました)そして、それだけでは音が出ないので、何か増幅装置があったはずです。思い出しました、ラジオです!木箱のキャビネットのラジオがあったはず、そしてそれも見つけ出しました!

ただそれだけでは聴けませんでした。何か電線をつなぐとかしないといけない。どれをどうつなぐんだろう、わかりませんでした。でも、どうしても聴きたくて、ああでもないこうでもないといじっているうちに、とうとう音の出る方法を見つけました!よしっ!これで聴けるぞ!

ピンクフロイドの原子心母を聴きました。ああ、ああ、至福の時間・・・・どうしてこんな美しい音楽が作れるんだろうと思いました。こういうのを、感動というんですね。そしてこれが、大きな大きな間違いでした。私は、道を踏み外したんです。足元の崖が崩れていたんです。でも・・・

本当に崖から転落したのは、「私が音楽している理由 1」で書いた通り、1972年3月6日です。そこで私は完全に壊れました。そして壊れるに至るまでの、心理的肉体的準備は、上記のレコードコンサートで、ピンクフロイドを聴いてしまったことによるものです。

終わります。読んでくださった方、お時間を拝借し、本当に申し訳ありません、ありがとうございました。ここから先は余談です。古い古いレコードプレイヤー、いや、電気蓄音機。と、古い古いラジオ。このラジオについて少々、解説させてください。

こういうのをケガの功名というんでしょうか? 我が家のラジオは木箱、それもかなり大きい木箱。共鳴胴として充分すぎる大きさでした。回路はもちろん真空管。真空管の音は、トランジスタより、ICより、LSIより、はるかに暖かでよい音がします。だから楽器用アンプは今でも真空管がベストです。

そして、当時としては不必要に大きなスピーカー。ケガの功名、偶然の幸運の累積。その結果、今思えば、それはそれは良い音がしたんです!その良い音で、ピンクフロイドを聴いてしまったんです。あああ、その約1年後、壊れるための<爆弾>の導火線に、火をつけてしまったんです。

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