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新聞記者たちの後悔(中)超大国との距離感

きょうは日本経済新聞の元エース記者のことを書く。

筆者もかつて日経新聞で記者をしていた。だから、肌感覚でわかるのだが、日経新聞には「経済報道をリードしている」という意識を強くもつひとが少なからずいる。

知識、人脈、分析力、筆力。これらに裏打ちされたプライド。

いわゆる組織をひっぱるエースを思い浮かべてもらえればいい。日経新聞のエースの場合は「オレの筆がニッポン経済をささえている」という自尊心だ。いろんな意味で影響力があるのはまちがいない。

取材の現場をアフリカのサバンナにたとえるなら、きょうの主人公は百獣の王、ライオンだろう。縦横無尽に獣を追いかけまわし、肉を喰らった猛獣の懺悔禄である。

バブル1

狂乱

男の目をつよく意識した奇抜なファッションに、あぶなっかしく艶めかしい腰つき。バブルのころ、東京・芝浦のディスコ「ジュリアナ東京」で撮影された1枚だ。

狂乱の時代だった。

夜、タクシーをつかまえようと、路上で札束を掲げてみせるひとがいた。都心のマンションは軒並み1億円を超え、山手線の内側の土地の価格でアメリカ全土が買えるといわれた。

なぜ、こんなことになったのだろう。

ひとことでいえば、世の中に出回るマネーの量を調節する日本銀行が、水道の蛇口をぐっとゆるめる(金利を下げる)金融政策をとりつづけたからだ。

バケツに水があふれても蛇口をしめなかった。

なぜしめなかったのだろう。

しめると誰が困ったのだろう。

ここがきょうのテーマとなる。

エース記者がみた日米関係

きょうの主人公、Tさん(現在も第一線で活躍中のため、本名は伏せる)は金融分野につよい経済記者として鳴らした。1980年代半ばには、アメリカの首都ワシントンに駐在し、同国の中央銀行であるFRB(連邦準備理事会)の金融政策などを担当していた。

日経新聞の王道といえるキャリアだ。そんなエース記者がみた当時のアメリカは「悩める超大国」だった。

とくに日本企業の攻勢にあたまをかかえていた。

トヨタ、ホンダ、ニッサン、ソニー、ヒタチ・・・。日本から輸出された製品がアメリカ市場を席巻し、GM、フォードといった現地メーカーを窮地においやっていた。

アメリカは、1ドル250円という”強すぎるドル”が日本企業の輸出競争力を高め、米国企業を弱体化させていると考えた。

日本に圧力をかけて人為的にドルを安く(=円を高く)しよう。そうすれば、日本企業の輸出採算はわるくなり、結果的にアメリカの貿易赤字は減るはずだ。

1985年9月22日、ドル安協調にむけて、日米など先進5か国で交わされた「プラザ合意」にはこんな背景があった。

T記者は自著のなかでこう振り返っている。

「それはまるで、豪華客船タイタニック号が氷山にぶつかったときのようでした。そのときはたいしたことではないように思えたのが、実は致命的な結末をもたらす重大な出来事だったのです。当時、日本経済新聞のワシントン特派員だった私も、この合意が、後の日本の運命を大きく変えてしまうとは思ってもみませんでした」

プラザ合意と内需拡大

ここで日本に視点を移そう。

プラザ合意と軌を同じくして「内需拡大」という言葉が国内でひろまった。

アメリカの圧力によって人為的に円高・ドル安を演出するわけだから、トヨタやソニーなど輸出企業をテコにした成長戦略は当然、描きづらくなる。かわって脚光をあびたのが、住宅や観光をはじめとした国内産業だ。大規模開発、ゴルフ場建設、高速道路延伸など国内にマネーがおちる産業によって経済を成長させようという運動を「内需拡大」とよんだ。

日銀も後押しした。1986年1月からわずか1年1か月の間に「公定歩合」とよばれる金利を5度も引き下げた(水道の蛇口をゆるめた)。

ようするに、世の中に出回るマネーをどっと増やし、国内経済の活性化につとめたわけだ。

これがバブル発生の芽となった。

バブル発生

過ぎたるはなお及ばざるがごとしーー。

日銀はよくわかっていた。1987年夏ごろには水道の蛇口をしめよう(金利を引き上げよう)と考えていたフシがある。不動産などにバブル現象があらわれはじめたからだ。

蛇口をしめれていれば、少なくともバブルは沈静化したはずだ。

だが、結果的にできなかった。

日経新聞のT記者がワシントンからくりだす記事が、日銀のまえにたちはだかった。

現実味をおびる通貨危機

T記者の話のまえに、アメリカの通貨をめぐる迷走劇をみておこう。

当時のアメリカは、プラザ合意によって円高・ドル安をめざしたはずが、こんどは逆に、いきすぎたドル安になやまされていた。ドル安には貿易赤字を解消するメリットがあったが、過剰なまでのドル売りによって、株価は大幅下落し、景気悪化が現実味をおびていた。

自国産業の保護を目的に、むりやり外国為替市場に首を突っ込んだ結果、アメリカのドルは不安定になってしまったのだ。

そして1987年10月19日。世にいう「ブラックマンデー」がおきた。ドルの暴落不安に端をはっした、史上最大の株価崩落劇だ。

「世界中を戦慄の渦への巻きこんだ出来事だった」とT記者。

一般的に外国為替市場では、相対的に金利が高い国の通貨が買われやすい。通貨の暴落をなんとしてでも防ぎたいアメリカにすれば、円買いドル売りにはたらく日銀による金利の引き上げ(水道の蛇口をしめる)は絶対に受け入れられなかった。

T記者を通じて日銀に圧力

ここでT記者のことばを紹介しよう。

「退路を断たたれたアメリカが白羽の矢を立てたのが、『NIKKEI』のワシントン特派員で、FRB幹部と親しく交流していた私でした。私を通じて日本のメディアを利用し、日本の世論を動かし、日銀に圧力をかけようとしたのです」

T記者はアメリカの通貨当局者の意に沿った記事を連日のように日経朝刊1面で量産していく。

内容は金利引き上げ(水道の蛇口をゆるめる)を模索する日銀を牽制するものだった。

当時の日銀幹部たちは、日経の紙面を見てなにを感じたか。結果的に日銀は金利の引き上げを見送り、水道の蛇口を緩めたままにした。

マネーはいよいよじゃぶじゃぶになった。

ジュリアナ東京で無邪気に踊り狂っていた、消費社会にどっぷりつかった若い男女は、この日銀の決断がもたらした現象のひとつといえるだろう。

「自分が図らずもアメリカのメッセンジャーになっているかもしれない、と自問自答するときもありました。しかし当時の私は、それよりもワシントンの意向をそのまま世間に伝えることが特派員としての使命だと割り切っていました」

戦後ニッポンの縮図

筆者はここに、戦後ニッポンの宿痾(しゅくあ)をみる。アメリカに従順すぎる姿勢のことだ。沖縄をはじめとする安全保障問題、農産物の自由化、原子力発電所の問題など、国家の根幹をなすあらゆる重大テーマに通奏低音としてながれている。そして、新聞記者が率先してこの機運をあおっている。

最後に、T記者の30年越しの懺悔のことばを紹介してこの項を締めくくりたい。

「ワシントン特派員時代の私は、ワシントンの権力中枢が私だけにリークする極秘情報に突き動かされたあまりに、図らずもアメリカの片棒を担ぐ結果となってしまった」

令和のいまでもドキっとすることばではないか。


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