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防災をHappyに伝える防災士、noteはじめます

note、はじめます

こんにちは。防災をHappyに伝える防災士、まこぴです。
Instagramを中心に防災について発信をしてきましたが、そこでは書ききれない言葉や想いをnoteに綴ることにしました。

私は、「防災を通じて彩り豊かなHappyな人生を創造する」をモットーに
セミナーや企業研修、おすすめ防災アイテムの紹介、パーソナル防災など
防災の大切さや知識を伝えるための様々な取り組みをしています。

ちなみに住んでいるのは神奈川県の茅ヶ崎市&岩手県の陸前高田市で
大好きな街を毎月行き来する、2拠点生活を送りながら過ごしています。
誰かにとっての常識や社会規範みたいなものにとらわれず、

☀︎自分がとびきりHappyになる選択を自分でする
☀︎自分オリジナルカラーの人生を生きる

なんとことにも拘って生きてます。


きっかけ、3.11の記憶 

私が「防災士」という変わった職業に就くきっかけとなったのは、
2011年3月11日に発生した東日本大震災。

当時大学生だった私。
新宿へ遊びに行こうと乗っていた地下鉄がグワングワン揺れ(生まれて初めて「死ぬかも」と思った)、電車が止まり帰宅困難になるという経験はしたものの、実家の家族(東京)も含め幸い怪我や被害はありませんでした。

その後東北を中心に日本全体が大変な状況となり、日々テレビや新聞などで流れてくるニュースを見聞きしていました。当時は状況を知ることと募金くらいしかできることがありませんでしたが、現地に行きたい、何かできることがあれば・・・と常に感じていました。

そんな中、2011年の4月〜6月の間に2回、
「被災地」と呼ばれていた場所へ訪れる機会がありました。

2011年4月


1度目は、4月。震災から1ヶ月ほどのタイミングです。
当時所属していた遺児の就学支援や心のケアを行う団体でバスを貸切り、被災した東北地域を回りました。

「現状を見る」これだけを目的としていて、誰と話すこともなかったし、写真を撮ることも禁止されていたので当時の写真はありません。

でも、今でも目の奥に焼き付いて離れない光景があります。
おそらく沿岸だったのであろう、どこかの地域。

見渡せど見渡せど、「瓦礫」の山でした。
(※「瓦礫」という表現は本当は好きではないのですが、今回は敢えて使用させて頂きます)

テレビの映像や新聞の写真でたくさんたくさん見てきたつもりでした。
その上で、「とは言っても、人間様の力があれば数ヶ月位で修復できるだろう」なんて心のどこかで感じていた考えは、この光景によって掻き消されました。

「人間は、自然の力には勝てないんだな」

大学2年生の時に感じたこの感情が、私が防災のことを考えるときの根底にあります。


2011年6月

その次は、6月。発災から3ヶ月ほどのタイミングえす。
当時通っていた大学の先生3人(3人とも東北に親戚がいるなど縁があった)に同行させてもらい、2度目の現地入りをしました。

この時は、先生方の縁ある場所3市を訪問しました。
・福島県いわき市
・岩手県大船渡市
・岩手県陸前高田市

詳細は1記事にはとても書ききれないのでまたいつか別途・・・とはなりますが、結論、岩手県陸前高田市の米崎小学校校庭にできていた仮設住宅集会所に受け入れて頂き、大学として学生が代わるがわる定期的に訪問をする取り組みが始まりました。

ちなみに私の通っていたのは女子大学。
「何かできることはないか?」を探したときに先生が「女子大生なので力仕事とかは向いていないけど、一緒にコーヒーを飲んだりとか、お話しを聞かせてもらうとか、そういうことがもしニーズがあれば・・・」という話をし、集会所の長の方に「ニーズがある」と言って頂けたことから始まりました。

東京に戻るとよく「ボランティア行ってて凄いね、偉いね!」なんて声をかけてもらうことも多かったけど、正直わたしはボランティアをしていた感覚は一切ない。

一緒にお茶を飲んで、お話し(他愛ないことから時には震災のことも)を聞かせてもらって、むしろ優しく温かく迎え入れてくれて、どちらかというと私たちが受け取ってばかりという感覚を今でも持っています。

だけど、「東京から女子大生が来る」これだけで何やら物珍しくてちょっと元気が出る方や、ヨソモノだからこそ話せる胸の内などがあったのかもしれません。この時やっていたことを学術的に括るのはあまり好きではないですが、もしかしたらこの時やっていたことは、いわゆる傾聴ボランティアや心のケア的なことだったのかもしれません。


災害が起きたときに何か被災地支援をしたい!と思い立ってやる時に、ニーズのミスマッチというものが多々発生します(必要でないものを支援しようとしてしまう、得意分野ではないことをやろうとしてしまうなど)。

わたしの同行させて頂いていた大学の先生達は、そのミスマッチを発生させないように、自分達のできることを明確に伝え、それでもし需要があればと丁寧にコミュニケーションをとっていました。後々気づいたことですが、非常に重要な、現地支援をしようとする上で必ず踏むべき工程だと思います。

国際協力をメインとした学部でボランティアやフィールドワークを長年専門としている教授達だけあって、その行動力や動き方は今でもとてもリスペクトしています。


現地の方同行の元、
陸前高田市役所で状況を教えてもらう教授達
米崎小学校仮設集会所で開催したひな祭りパーティー
みんなでケーキをデコレーションしました🍰

その後

そうして始まった大学と陸前高田の交流。
正確には数えていませんが、私も何度か米崎小学校仮設住宅の集会所へ訪問し、お茶っこ会・プチひな祭り・夏祭りなどをみんなで開催しました。

なんでそんなに通えたかって、豊かな自然・旨い飯・そして陸前高田の方々の温かいこと温かいこと・・・
いつも、陸前高田へ着くと「おかえり!」とハグしてくれ
東京へ帰るときには「行ってらっしゃい!」と送り出してくれました。

2013年には
「おい古島(私の名字)! 8/7、大事な祭りがあるから、来い」と言われ
(誘われ方が雑なのは、それだけ仲良くなっていた証拠w)、
何がなんだかよくわからないままに参加したのが、陸前高田の「うごく七夕祭り」。

この祭りに出会ってしまったのが運の尽き。
惚れ込んでしまい、その後社会人になっても約10年、毎年この日だけは皆勤賞で通い続け、2023年にはついに住み始めてしまっている。
七夕祭りのことも、語り始めたらスーパー長くなるのでまた今度(笑)


陸前高田「うごく七夕祭り」
私が10年来参加させてもらっている荒町組の山車

2020年、防災士に

ダメダメなわたし


そうして出会った陸前高田。
元々は防災なぞ1ミリも興味がなかったわたし(むしろダサいカッコ悪いと思って斜に構えてすらいた)が、あまりにも大きい自然のパワー、それによるダメージの大きさ、年月を経て変わっていく街と人について自分の目で見て耳で聞き心で感じ、いつしか「防災って本当に大切だな」と心から思うようになりました。

だけど、「大切だな」とは思うものの、生まれつき根っからの怠惰な私はどうしても実際に行動に移すことができませんでした。

ひとたび東京に帰れば、学校の勉強、アルバイト、友達との遊び、いろんなことが待っていて防災の優先度は最底辺。

勢いで準備した防災リュックも、中に入れていたカロリーメイトの賞味期限が数年切れている。。。なんとこともザラでした。

そんな、陸前高田という場所に通い続けていながらも防災対策を全然していない自分に少しコンプレックスを感じながらも、やっぱり怠惰すぎて、何年も何年もずーっと後回しにしていました。

ある日の飲み会

そんな私がついに変わらざるを得ない状況となったのは、2018年だったか2019年だったか、そこらへんの出来事でした。

七夕祭りに何年も通い続けたおかげで現地のお祭りメンバーともどんどんと仲良くなり、お祭り以外のなんでもない日にプライベートで何人かと陸前高田の居酒屋で飲んでいた時のことでした。

普段お祭りのことや他愛ない話ばかりしかしないし、私から震災のことを聞いたりはできなかったししなかったのですが、何の流れからだったか、初めて3.11当時の話になったときがありました。

あの時走って逃げた時は俺人生1番足が速かったと言っていたお兄さんや、お店の屋上に逃げてギリギリ助かったお兄さん。身近な友達が、そんな経験談を話してくれました。陸前高田出身の友達同士すらもお互いに話したことってなかったみたいで、「お前そんな状況だったのか」なんて言い合っていました。仲間を失っているのは当たり前で、中には自宅やご家族の命を失っている方もいました。

自分がその時どんなリアクションを取ったのかは覚えていないけど、一つだけ鮮明に覚えていることがあります。

酔っ払いながらもそんな話をしてくれていた大好きなお兄さんのうち1人が、
私の目を見て

「真子ちゃん、地震が来たらちゃんと逃げなきゃだめだよ」

と言ったこと。


この時、私はなんだかサーっとなって、
直感的に、「やばい」と感じました。

私、こんなに陸前高田に通っているのに、何も防災していない。

テレビで見知らぬ誰かが不特定多数の人に向かっているのではなく、大大好きな人が私に向かって面と向かって伝えてくれているのに、東京で大地震が起きて怪我をしたり最悪死んだりしたら、この人達に顔向けできない・・・
そんな風に感じて、焦りを感じて、この時生まれて初めて防災が <自分事> になりました。

ダメダメなわたしを変えるために

この飲み会での出来事から、ついに私は、本気で防災しよう、
断片的な知識ではなく、一度体型的に学ぼうと決意をしました。

一方で、その時年齢が28か29あたり。
30年近く生きてきてようやく、自分という人間は本当に怠惰で三日坊主(むしろ三日にもならないレベル・・・)なので、自力では絶対に続かないということがわかっていました。

なので、コツコツ系の努力ではなく、何か強制的にやらなければならない環境に自分を追いやる方法はないか?と考えたときに、その答えが「お金を払って防災士の資格を取る」という選択でした。

(米崎小学校で私たちを受け入れてくれた集会所の長の方が、数年後に防災士となり、facebookを通じていつも陸前高田の様子や防災関連情報を発信してくれていたことで、防災士の存在を知っていた)

事前に家に送られる分厚いテキストでの予習から始まり、
2日間みっちりの座学、試験合格、救命救急実技を経て2020年5月に認定。

過去の災害の特徴や教訓・自然現象の発生の仕組み・避難所運営の注意点など、これまで知らなかった内容や分野も多く、勉強になりました。


この紙切れだけでは誰の命も救えない


2050年5月、晴れて防災士の資格を手に入れましたが、
届いた合格証を手にした瞬間に、ふと違和感を感じました。

・・・あれ?この紙切れ(合格証)を「持っている」だけでは、誰の命も救えないぞ?

だって、知識を持っているだけで行動を伴わなければ、周囲の防災状況は何も変わらないですからね。なんなら、自分で対策をしなければ自分の命すらも救えない。防災士になったからといって何も対策しなくたって誰に咎められるわけでもないし、バレることすらないですからね。

色々考えた結果、「これは、周りに伝えることに意義のある資格だ」という考えに落ち着きました。

防災の大切さや必要な知識を発信していく。
そのことで1人でも、少しでも、防災に取り組む人が増えれば嬉しいし、何より伝える側になることで、伝えるからには自分もちゃんとせねばという良いプレッシャーがかかるので、自分自身の防災継続の後押しにもなると考えたのです。


とかなんとか言いながら、実は最初1~2年は、防災について発信するなんてガラじゃないし小っ恥ずかしくってかなりウジウジしてました。
(「防災って何?笑」とか言われたり鼻で笑われたり、「あー、意識高い系ね」とか思われるの辛かった・・・)

けどウジウジしながらも細々と続けたことで、色々な巡り合わせとめちゃ大事だと思う!と応援してくれる周りの方々のおかげで、気づけば大企業会社員を辞め防災をライフワークにするほどになっていました。

人生どう転ぶかわからないものですね。


防災をHappyに伝えるということ

「防災をHappyに伝える防災士」
という肩書きは、自分をどう名乗るか色々検討していた頃、
スーパーまでお散歩をしていた時にふと舞い降りてきたものです。

偶然の産物のような名前なのですが、
頭に雷が落ちるレベルでとてもしっくり、気に入っています。


防災がなかなか広まらない最大の理由は、
「お堅い」「つまらない」「脅迫観念から攻めてきがち」
であることだと考えています。

そんな防災を180度転換させ、明るく楽しくHappyに伝えることで、
「なんだか楽しそう」「やってみたい!」「やったら人生までHappyになりそう!」
そんな風に感じてもらえる伝え方をすることで、いつか救える誰かの命の数が、1つでも増やすことができるはず。

これまでも、これからも、
そんな想いで防災と向き合い、伝えて続けていきたいと思っています。


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