私の「原理と基礎」

① 万事を働かせて益と成すお方に

私の生の目的は、神が決めることであるが、
私はこの生を通じて神にその回答を提出する責務を負っており、
神はこの生の内で私にその答えを示す義務を負わない。

私はなぜ神に応える責務を負ったのか。
それは、私が、神は「万事を働かせて益と成す(ローマ書簡 8:28)」お方である、と知らされたからである。
この責務は私的啓示に由来するものであり、全ての人が負っているものでも、負うべきものでもない。

それで、私の生きる目的は、以下のようにも表現できる。
「来たるべき世代の、私の知らぬ誰かの、魂の救済のため。」
これは、私の魂もまた、多くの私の知らぬ先立つ縁の連なりを通じて、救済されたからでもある。

第一戒
私の存在の意味や目的を、どんな特定個人にも、どんな特定事物にも託してはならない《我の他に神無し》

私だけの十戒

私にとっての救済とは、何であったか。
それは「体の贖い(ローマ書簡 8:23)」である。
私はその啓示の日に、この身体が霊においても、肉体においても、全被造物との分かち難い結合関係のうちに存在すること、そしてこの身体と全被造物は共に働いて神化に与っていくことを知った。

「実に被造物は、神の子らの出現を切に待望している。(ローマ書簡 8:19)」
自然性の現実、悪や災いも全て、人間に付託された「山をも動かす(マルコによる福音 11:23)」権威に由来する。人間と自然世界の関わりは、見える領域での働きかけ以上の、見えざる絆があるのである。

それで、永久の孤絶の内にある私の身体が、見えざる領域においては、霊においても、肉体においても、主の聖餐を通じて愛する人々と、そして全ての死者たちと、永遠に共在していると私は知った。

また同時に、霊と、肉体あるいは物質とは、同一の存在物の相補的な側面であることを私は確信した。ただしこれは知的な確信であって、神の前の真理に属する事柄であるかはわからない。ただ少なくとも、西方キリスト教の伝統における、霊的な領域を肉体や物質から遠ざけ、切り離す傾向については、これを必ず相対化しなくてはならないと確信している。

「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。(使徒行伝 17:28)」

主よ、私の身体をあなただけが受け入れてくださいますように。

② 地上に居場所なき人々のための国

さて、私の身体は永久の孤絶を表現して歩むべきである。それは、孤絶した肉体が、それでも実は人々と、キリストと、万物と、そして神と直接的に繋がっている、という希望を体現して生きるためであり、またそれにより全ての孤独な人々に対する連帯を表明し続けるためである。

これはまた、長らく私が他者との関係において、不断に、また不当に他者の領分を侵犯しようとしてきたことの報いであり、償いでもある。

私は、どんな他者の一動作もそれ自体として承認し、私の期待、私の予期がそれを歪ませることのないように生きたい。人間と人間との間に生ずる一切の要求や期待を放棄したその先の、全き他者同士としての関係性を希求したい。

第八戒
私が何事かを他人に要求する正当性は、いかなる時も在らず、また生じない。《汝、盗むことなかれ》

私だけの十戒

「霊において貧しい者は幸いである。天の国がその者たちのために。(マタイによる福音 5:3)」

私の寂寥、私の孤独は、地上の関係においてそれを一部でも埋めようとすること自体が大きな誤りであった。

「わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた。そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
わが魂は言う、「主こそわたしの受くべき分。それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
(哀歌 3:17-24)」

さて、私もまた、神の国の実現のために生きたい。神の国とは、地上に居場所なきものたちのために、キリストが創出した場所であり、それはどこか向こう側に存在している空間でも、死後の世界でもない。不断に私たちの間に実現させ続けるべき何事か、である。
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にある。(ルカによる福音 17:20)」

また、地上に居場所のある者に、神の国は必要ない。
「イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。(ルカによる福音 9:62)」
もし「死後の行き先としての天国と地獄がある」かつ「天国=神の国」という枠組みに囚われていると、キリストの言明はあまりに厳しく、排他的に聞こえる。しかし、そういうことではない。キリストの道は険しく、共に歩むものたちにとっても険しい。キリストはあくまで失われた羊のために生きたのであって、群れにいる羊に敢えて自分の往く険しい道に来るように強いたりしないのである。
「するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。(マタイによる福音 15:24)」

私は、神の国とは、キリストその人自身のことでもあると思う。キリストは、孤独な人々と孤独を共にした。居場所なき者と連帯するために、どんな空間も、どんな関係も、それを居場所とはせぬ生き方を選んだ。
「イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。(ルカによる福音 9:58)」
キリストに倣って、孤独な者として歩み、孤独な人々とその孤独において連帯することが、私にとって自分を神の国の一部として献げることである。

「母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい(マタイによる福音 19:12)」

主よ、私が神の国に生き、そして死ぬことができますように。

キリストの模範

さて、なぜ我々は他者排斥的な結合関係によって、互いの断絶、また弱き人々の孤立を積極的に進めてしまうのか。
これは、病と、悪と、罪の存在の故、そしてそれらに対する防衛機制の故であろう。であるから、根本的な平和、真に包摂的な共同性という意味での神の国の実現のためには、結局は病と、悪と、罪の問題に向き合う必要がある。

キリスト、またキリスト者は、本来的に、世界の病と、悪と、罪を負うために存在させられている。これは、望むと望まざるとに関わらず、あらゆる教条に優越するキリスト者の第一義的な義務に属する事柄であると私は思う。
「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。(ペテロ第一書簡 2:21」

主よ、あなたにとっても私が慰めとなりますように。

❶ 病める魂を世話すること

キリスト者は自他の病を世話すべく召命されている。
「行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。(マタイによる福音書 10:7-8)」

疫病から共同体を守ることは、旧約の諸律法の最も中心的な原理の一つである。
旧約聖書の哲学は、常に新約聖書の哲学によって更新される必要があるが、同時にそれは取り除けることのできぬ地盤である。そしてここで、新約聖書の関心によって旧約聖書を読み込むことで陥る誤謬がある。それは旧約聖書の魔術化である。

旧約聖書の世代と比べて、新約聖書の世代のキリスト者は、多分に魔術的な世界観のうちにある。普通は逆に感じられるかもしれないが、実は我々の世代の方が魔術的である。

旧約聖書において神は神殿や契約の箱といった空間的な地点と結びつけて捉えられており、神の祝福と言えば "長命" と "子孫繁栄" が主要なものであり、神の刑罰と言えば "酷い死" や "氏族の滅亡" のことである。これは新約聖書の価値観を身につけた人々にとって、極めて "世俗的" "物質主義的" 感覚と言える。
「神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。(サムエル記下 6:2)」

人類史を通して人間の知識が開けていったのに比例して、魔術的な領域も未踏の間隙において拡張していった。神、あるいは霊、あるいは魔術の領域は、神殿の聖所でもなく、天に近い山の上でもなく、川や谷や森や海の向こうでなく、水底でも雲の上でもなく、宇宙の彼方ですらないところへ移動を強いられ、ついにはこの目に見える世界の裏側に貼りついて存在する "神霊の領域" という魔術的空間が創出されることになった。

この認識とも相俟って、聖書の掟は全て、策定当時の認識よりも圧倒的に強力な魔術化が教会において施されている。
「偽証してはならない」という掟があった時に、偽証が生む現実的に有害な効果の範囲とは全く関係なく、その罪自体が決して見えない神霊の領域に悪しき影響をもたらすと見做されて断罪されることになるのである。このように魔術化された掟は、掟の意図した実際上の意味から遊離して、それ自体として守るべきものになってしまう。

さて、なぜこの話をしたかと言えば、掟の魔術化こそ、キリストが立ち向かった相手の一つであると私は信じているからである。
「そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。(ルカによる福音 6:9)」
「もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか。(ヨハネによる福音 7:23)」

であるから、聖書を読む時、あるいは、全て我々を何らかの行動や感情に向けて動かそうとする言説に出会った時、そこに我々が見出してしまいがちな物語、それらしい設定を解体する必要がある。

第二戒
自他に関するどんな物語も無制限の解体に値する。《汝、偶像を拝すことなかれ》

私だけの律法

さて、そうして聖書が書かれた当時の認識に立ち戻って聖書を読んだ時、聖書の関心事の一つは、病から人々を守ることである。

先に述べたように、この病とは比喩的なものだけでなく、第一に身体に生ずる病のことである。であるから、キリストの福音宣教の重要なポイントの一つは病の癒しであった。まず私たちが互いに健やかに生きて死ぬこと、そのためにこそあらゆる仕事があり、家政があり、共同体があり、国家がある。キリスト者こそ、地上的、物質的なあらゆる領域において使命がある。
「神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。(ルカによる福音 13:20)

そしてその上で、病とは、身体に限らず、精神を蝕むものも含む。ただし、身体/精神の区分も、古代において肉/霊を分けて表現せざるを得なかったような、知識の限界からくる相対的な区分けに過ぎないかもしれない。今日、多くの脳の病が、"精神病" に未だ区分されているが、この呼び方があまり適切とは言えぬ認識は広まりつつあると思われる。
「「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです。それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。」(ルカによる福音 9:38-41)」

さて、精神を蝕む病には特に、「自分の幸せを願うのでなく、他人の不幸を願う病」「あらゆる小さな善意志を踏み躙り、あるいはそれらを脱価値化して回らなくては気が済まない病」「自らの積極的な望みではなく、憎悪や嫉妬の対象への敵愾心からしか言動を起こせない病」「強きを助け、弱きを挫くことを正当化して憚らない病」などがある。これらは癌や結核と同様に、病であり、人格とも個性とも私は思わない。こうした自他の内の病は、あくまで救済を求めて存在しており、しかもその救済は神の摂理のうちでしか与えられない。内なる、または外なる病者に救済が与えられるまで、病状を緩和し、伝染を抑制し、病が引き起こす悪に対峙する盾となるのがキリスト者の役割である。ただしここで必ず履き違えてはならないことがあると私は思っている。それは病者を助けることと、病に餌を与えることを混同してはならないということであり、また、悪に対峙することと、悪を咎めることを混同してはならないということである。
「国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。(エゼキエル書 22:29-30)」

キリスト者は悪と対峙すべく召命されている。悪とは、災害のことである。自然災害を悪と弾劾する場面は少ないが、それは自然物に悪意がないと想定されるからである。しかし実際には、人間社会のうちで誰かの悪意が発生源と見えるようなさまざまな悪さえも、自然災害のような自然発生性と、制御困難性がある。結局、悪とは、病める魂が積極的に起こし続ける(「悪意」が引き起こす)災害と、人間社会で悪意なく偶発的に起こる悲劇と、自然物が偶発的に起こす悲劇の三つに分けられるが、万象の連なりの中である場所で発露したものという意味ではこの三つに大きな違いはない。

悪に対峙することと、悪を弾劾することの違いは以下である。悪に対峙するとは、悪を悪として観察下に置き、正当化と忘却の両方を許さないことであり、また悪が引き起こす効果(害)を緩和するための方策を具体的に打つことである。そこには他者が受けることになる害を自分が代わりに引き受けることが含まれる。一方で悪を弾劾することとは、悪の原因、悪の責任を、ある人格に対して問い、責め立て、改善を要求することが含まれる。この方法によって悪が根本的に取り除かれることはほとんどない。なぜなら多くの場合、悪を引き起こしているのは、ある人格を蝕む病であり、それは弾劾することによっては治癒しないからである。ただし、これは、悪を弾劾すべきでないという意味ではなく、また悪を引き起こした人格がその悪について責任がないという意味でも決してない。悪が引き起こす効果の緩和のために、悪を弾劾すること、たとえば、不当に虐げられている人間がいる時に、そのいかに不当かを弾劾によって明示しておくことは、その悪を被った側の魂が新しく負う病を緩和するために必要である場合があるであろう。

第三戒
私に自他を断罪する権威はなく、自他を正当化する権威もない。《汝、虚無に神の名を用いることなかれ》

第四戒
自然性の傾斜に抗して立ち止まる瞬間のみが人間の自由の存する場である。《安息日を祝別せよ》

私だけの十戒

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。(イザヤ書 53:4)」
主よ、私たちの病を共に担ってください。

❷ 罪を償うこと

また、キリスト者は罪を償うべく召命されている。私自身の思い、言葉、行い、怠りによる全ての罪、そしてさらに、私が社会構造の中に存在するだけで不断に加担し続けている全ての罪であり、災害を引き起こす病、また病を植え付ける災害のことである。
誰か他人の罪には、たとえ世界の裏側で発露したものであったとしても、私が関与している。また、1000年前のことであったも、私に責任がある。罪とは、脈絡なくある人のところに発生したものではなく、万象の連なりの中である人間のところに宿ることになったものであり、特に、搾取構造の連なった社会構造の種々の末端において顕在化するものである。誰かが快適な生活を追求している間に、その快適さのために供された資源を準備するための収奪構造が再固定、あるいは増長され続けるのである。
また、直接手を下したことのない綺麗な手を持つ者、すなわち社会システムや権力勾配の中で罪を犯す役割を他人へと外注している者は、その者が罪人であるばかりでなく、その者こそが罪人の首長なのである。
義人の殺害に直接手を下していないある使徒はこう言う。
「わたしは、その罪人のかしらなのである(テモテ第一書簡 1:15)」

そして私が世に生を受けて存在していること自体、あらゆる動物的、また社会的闘争の中で弱き者たちを殺害、あるいは見殺しにしながら生き残ってきた人間たちを自動的に代表している。私が1000年前の罪について責任を負うべきであるのはこのためである。
私にとって、世界に「原罪」と呼ぶべき事象があるとすればこの社会システムから産まれ出たことそのこと自体であり、またその適者生存原理の中で多世代に渡って学習し続けた私の遺伝子のことである。

第五戒
全て自分の過去を責任主体として引き受けなくてはならない。《汝、祖を敬え》

私だけの十戒

「原罪の解決のためにキリストを信仰せよ」と説く西方キリスト教は、原罪と向き合ってなど全くいない。
キリストを信仰して、何をするかがキリスト教には問われている。私は、キリストを模範とし、キリストを模倣して生きるところに、遺伝子と社会慣習の閉じた円環を開く唯一の道があるとキリストに教えられている。
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネによる福音 14:6)」

さて、キリストが人類の罪を贖ったとはどういうことだろうか。これは西方キリスト教で主張されているように、「神が人類の罪に対して与えるはずの刑罰を、神がキリストに代わりに負わせた」ということではない。
確かに、キリストを十字架にかけたのは我々の罪であり、我々はそもそも刑罰を受けるべき存在だが、その刑罰をキリストに転嫁して処刑したのは我々人類であって神ではない。
「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。(マタイによる福音 12:7)」
人が悔い改めるべき罪とは、自身の罪だけでなく、キリストの殺害そのものに加担した罪であり、またキリストが連帯したあらゆる世代のあらゆる弱くされた者たちを圧殺する社会システムを不断に容認し温存し続けている罪、またまさに私が死に追いやっている人々に対して、その殺害の責任をそれぞれの被害者の自己責任として転嫁する罪である。
「よく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである(マタイによる福音 25:45)」

神の報復および刑罰は、キリストの贖罪によって取り下げられてなどいない。むしろ、かの義人を殺害する人類に対して改めてこう宣告されている。
「こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の世代に及ぶであろう。(マタイによる福音 23:35-36)」

実際、キリストを殺した世代の人々は、神の子を殺したことによる神の報復が自分に及ぶことを自覚して逃れた者たち以外、キリストを信奉していようがいまいが関係なく、みな紀元70年に永遠の都エルサレムと運命を共にしたのである。
「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい。そのとき、ユダヤにいる人々はあの山に逃れよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。それは、聖書にしるされた事がことごとく成就する刑罰の日であるからだ。(ルカによる福音 21:20-22)」

燔祭を必要としているのは神ではなく人類である。人類の罪の連鎖構造に終端を設けるための焼き尽くす捧げ物としてキリストおよびキリスト者は召命されているのである。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたにとって理に適った霊的な礼拝である。あなたがたは、この秩序と妥協してはならない。(ローマ書簡 12:1-2)」

主よ、私を燃やし尽くしてください。

私の十字架を背負うこと

しかし人間、あるいはキリスト者に与えられたこのような巨大な重荷、召命をどうして背負い切ることができるだろうか。それは、ほとんど不可能なことであるが、ほとんど不可能であるからといって、一部であれ決して免責されることはない。
ただ、キリスト者は「各々の十字架を背負うように」召命されている。これは、世界の全ての問題に心を配ろうとして途方に暮れ「何もしない」ことを正当化してしまうことを、戒めていると言える。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マルコによる福音 8:34)」

自分の負うべき十字架とは何であるか。十字架とは、私の通った苦しみ、あるいは私に課せられた病のことであり、それを負うとは、その苦しみを受け取った者として生きること、また自分と似た苦しみを負った人々と連帯すること、また来たるべき世代に私と似た苦しみを負うかもしれない人々に希望あるいは救済をもたらすために生きること、だと私は思う。

❸ 結婚、性、血縁に依らない共生/連帯形式の再建

私の最大の苦しみが何であり、病が何であるかは、もしほとんど誰の目から見ても明らかなことであったとしてさえも、私自身が明示的な形でキリスト教世界に対して表明することは決して無い。
このことについて私が教会で述べることがないということ自体が、今の世代に至るまで、教会が不断に圧殺してきた声があるということの一つの象徴である。
また、あらゆる世代で小さき魂たちを殺害してきた殺人者集団たる西方秩序の一員たる私自身も、このことについて、被害者としてではなく、加害者としての責任を生涯負う。
「また、あなたの証人ステパノの血が流された時も、わたしは立ち合っていてそれに賛成し、また彼を殺した人たちの上着の番をしていたのです。(使徒行伝 22:20)」

より踏み込んで言えば、私は、西方キリスト教会の数多ある巨大な過ちの一つは、単婚主義および強制異性愛主義および生殖家族主義に基づく血縁家族制を愛の最上級かつ神秘的な実践の場として定めたことであり、これにより全ての時代の政治権力に人民を所有し管理する権能を嬉々として明け渡し、また人間と人間との間に生じる所有・搾取関係を再肯定し、階級と民族主義の基盤を温存し、キリスト教をユダヤ教に回帰させる毒麦の種を植え込んだことである。
「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカによる福音 18:29-30)」

この傾向は、プロテスタンティズムの興隆においてより一層の邪悪さを増した、西方教会の悪魔的側面の代表的な一例であり、このことのために、私は独身主義を結婚主義への対等なアンチテーゼとして歴史のうちに保持し続けたローマ・カトリック教会に改宗することになった。
「わたしのように、独身でおれば、それがいちばんよい。しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。(コリント第一書簡 7:8-9)」

現代は、プロテスタンティズムと資本主義の協業による結婚主義を実践し続けた末路として、大量の独身者を「未婚者」という「不完全」の烙印を押したまま野放しにした状態にあり、この報いは教会と社会自身がいずれ勝手に被ることになる。

しかし私は、そのような被害者意識、ルサンチマンに燃えるままに生きたいというわけではない。
私は結婚と性と血縁によって閉じる古代ユダヤ社会型の家族観とは別の、キリストにある家族を再建することを夢見ている。
私にとってのキリストにある家族とは、いくつかの核家族と幾人かの独身者が日曜日ごとに恭しく来訪する場としての教会のことでは決してない。
それは結婚と性と血縁を越えて、生きることを共有し得る人々の繋がりのことであり、歴史的には修道会がその模範として、あるいはその理想像の一部の具体的表現として世界に提示し続けた共生形式のことであり、またあらゆる部族、国語、民族、国民を兄弟姉妹として結んだ初代教会のことである。

「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ書簡 3:28)」

主よ、教会を興してください。

❹ 相互非所有の関係構築

誰もが実はよく知っているように、全ての時代の人類が最大限に力を譲渡し続け、肥え太らせてきた悪霊のかしらは、「所有の概念」である。
「アハブはナボテに言った、「あなたのぶどう畑はわたしの家の近くにあるので、わたしに譲って青物畑にさせてください。その代り、わたしはそれよりも良いぶどう畑をあなたにあげましょう。もしお望みならば、その価を金でさしあげましょう」。(列王紀上 21:2)」

所有は、文字通り手に取れるものを我々に所有させるだけでは飽き足らず、蔵を所有させ、蔵に入る全ての物品を所有させ、穀物、衣服、寝所、家屋、通貨、土地、債権、身体、そして人を人に所有させている。
「貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。(コロサイ人への手紙 3:5-6)」

所有の概念は、別の所有の力に対抗するための必要悪としても君臨しており、まず独身者は自己を所有し、結婚者は相互に配偶者を所有し、親は子を所有し、共同体は相互に構成員を所有し、その所有関係の中で、より悪しき、とそれぞれが思った力から、所有物を保護している。

所有の概念は、逆に欠如の概念を生む。所有の言葉で言うならば、もし人類が世界中の全てのものを平等に共同所有していると真に思えたならば、多くの欠如の感覚は取り除かれるだろう。しかし、他者が世界を余すところなく分割して独占あるいは寡占している世界に生まれ落ちるから、いつも我々は身体の維持に必要な最低限の資源だけでなく、それらを越えた範囲においても様々なものを渇望させられて存在している。

私は、万物と自分の身体が分かちがたい結合関係にいることを知っている。その意味で、私は、この自身のうちから不断に湧き出る欠如の感覚、渇望を否定し続ける義務を負ってしまっている。
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。(コリント第一書簡 6:19)」

またその意味において、私は自身の存在を、あらゆる世代のあらゆる他者に対する共同所有物に位置付けたい。また、少なくとも人間関係においては、どんな他者に対してもあらゆる意味で、力の限り、相手を所有しないあり方を探し続けたい。
そして、そのような、神のみを所有とし、神のみに所有される単独者たちが、来たるべき世代に増すことを信じて、その未だ現れぬ来たるべき世代と連帯して生きたい。
「ある人は「わたしは主のものである」と言い、ある人はヤコブの名をもって自分を呼び、またある人は「主のものである」と手にしるして、イスラエルの名をもって自分を呼ぶ(イザヤ書 44:5)」

第十戒
生に私が受くべきものとして存在する事物はない。《汝、他者の所有を欲することなかれ》

私だけの十戒

主よ、私の愛した人が、私と無関係に、幸せでありますように。

❺ 対立構造の間に立つ

私は、この邪悪な世界が、究極的には、あるいは潜在的には、佳いものであると信じている。悪意の塊のような人間や思想でさえも、根本にあった佳き願いが、災害と病によって歪み切った状態で現象しているのだと思う。
「わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自身において、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。(ローマ人への手紙 14:14)」

また私は、あらゆる弱き者を圧殺してきた西方キリスト教会の保守的思想に加担して生きたのだから、教会内外の同種の思想に染まった人々に対して、ただ対抗し、咎める以外の関わりを持ち続ける責任を負ってしまっている。
「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。(コリント第一書簡 15:9)」

私は、世にある多くの対立するイデオロギーについては、どちらかがどちらかを消滅させるという形では解決し得ないと考えている。あるイデオロギーが存在する以上、それは良くも悪くもそれに与する人間が存在し続けているということであり、ある人間がたとえ悪意に満ちていたとしても、その何か依り頼みたくなってしまったイデオロギーがあるというならば、そのイデオロギーには何らかの、人間の動物性や思考を捉えるだけのある真理性を持っているということだと思う。

もちろんここでいう真理性というのは、自然法則ようなものであって、それに対する価値判断は含まれない。ただ、私にとって、存在する、存在しないという事実性の確認は、さまざまな価値基準から判断される評価に先立つ真理性を持つという意味で重視している。存在するものは、消滅させることができない。

第九戒
価値判断においては現状変更を試みてはならない。《汝、裁きにおいて偽証することなかれ》

私だけの十戒

保守と革新、伝統主義と進歩主義、原理主義と自由主義、経験主義と合理主義、アリストテレスとプラトン、カトリックとプロテスタント、ペラギウスとアウグスティヌス、東方教会と西方教会、異端と正統、東洋思想と西洋思想、多神教と一神教、宗教と科学、還元論と全体論、独身主義と結婚主義、共同体主義と個人主義、共産主義と資本主義、貴族制と民主制、アジア主義と欧米主義、ナショナリズムとグローバリズム。

私は存在する全てのものの間に立って生きたい。常に天秤の傾きを水平にすべく生きたい。ある地域に、あるいはある時代に、あるいはある集団において支配的なイデオロギーは、常に尊重されかつ相対化されるべきである。これは相対主義ではなく、あくまで対立の向こう側にある絶対的な善を希求するためのものである。また、この相対化は知性の諸能力に依存した活動であって、全ての人が負うべき当為ではない。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。(コリント第一書簡 9:19)」

またこれは、イデオロギー間の融和を望むものでない。融和などというものは、緩やかな鎮圧のことである。むしろ対立は常に維持される必要がある。しかし、対立構造は常に、人間と人間の戦闘状態を望む精神によって利用されたり、豊かな内容を持った事物を貧しいものへと捨象させたりしてしまったりする。このことも含めて警戒しながら、しかし、結局はそれも含めて、私たちを抱き込もうとしてくるあらゆる秩序に対して戦うことが必要なのである。
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。(マタイによる福音 10:34)」

私は、物質と生活と食事においては全ての人と連帯したいが、心情と思想の領域においては、誰とも永久に理解し合う気はない。古い秩序の中で養われている命の全てを私は尊ぶ。

第六戒
天地万有について、その個物としての尊厳を解体してはならない。《汝、殺すことなかれ》

第七戒
古い規範や約定は、その保護下にある弱者に配慮することなしに転覆してはならない。《汝、姦淫することなかれ》

私だけの十戒

ただ私自身は、荒野で叫んだ歴史上の全ての声に耳を澄まし、また私自身がそのような荒野で叫ぶ一つの声として、誰かに私の聞いた声を引き継いでこの生涯を閉じることを願っている。
「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である。(ヨハネによる福音 1:23)」

「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない。(エレミヤ書 31:15)」

主よ、全ての人の叫びを、追憶し続けてください。

「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります(ルカによる福音 2:29-32)」

「またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。(ヨハネの黙示録 14:13)」



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