見出し画像

覚悟がつけられなかった私が決断できた話


今までの人生で何か大きな決断を迫られた時、自分一人の意志で決めてきたことがなかったように思う。

そういうことを薄々感じてはいたけれど、それに向き合う機会も勇気もないままに過ごしてきた。
そんなままで、結婚し、子供を産み、30代に突入し、育児に専念するも自分の夢や理想を捨てきれず、けれど叶うこともなくモヤモヤする気持ちを抱える日々を送っていた。

そんな私が2023年3月に10年一緒にいたパートナーと別れ、3歳の息子とともに新しい人生を歩み出せた時のお話。


共に歩み続けるか、別の道を切り開くか


これからの自分の生き方を決めるような大きな岐路を迎えた時、私はまったくその場から動けずにいた。
だって、どちらの道も辛く険しい道だとしか思えない。
進むべき道を決断できず、その時の感情に流されて右がいい、やっぱり左、どちらにも進みたくないと堂々巡りを繰り返す自分の意志の弱さにほとほと嫌気が差していた。

大きな物事を決断していく覚悟ってどうやって決めるんだっけ。
覚悟を決めた状態ってどんなものなの。
みんなはどうやって決めてきたの。
その意志は何を経たらそんなにも強くなるの。

自立した大人として必要なスキルを多くの人がそれぞれの人生の中で培うというのに私はこんな歳になってもまだなのかと。
今までの人生で、誰にも寄りかからず自分の足だけで立ったことがないことに愕然とした。


社会人一年目に一人暮らしをした。
実家から車で一時間ほどの場所、長い反抗期中だった私は実家を出て独り立ちした気でいたけれど、月に数回は玄関前に食料の入った段ボールと母が手作りした惣菜が置かれていることもよくあった。
部屋に自分ひとりの気配しかないことが寂しくて、預金残高の数字の増減が私の人生を握っているようで怖かった。
自分の人生に一人で責任を負う勇気がなくて逃げ出したい気持ちがいつもあって、でも親の心配を押し切って飛び出してきた手前出戻りだなんてプライドが許さない。
葛藤した末、虚勢でしかなかった一人暮らしは長くは保たず、数ヶ月で終了した。退去費用は親が出してくれた。
そんな頃の私から、もう十年以上経っているというのに、今の自分はあれからあまりにも成長していない。


弱さと向き合う

自分の好きなこと、やりたいこと、そういったものは頑固なまでにはっきりしていたけれど、そこに伴う責任については持ちたくなかった自分が、ついに今回の決断の時に向き合わなければならなくなった。
ここでの選択は誰でもなくあなただけがするのです、と強烈なスポットライトを浴びせられるかのような。

そうして、とにかく自分の弱さと向き合う事となった。

自由に生きたい、好きなことに身を捧げられる未来を叶えたい、愛情で溢れる幸せな道を歩みたい。
けれど、それに伴う責任を私一人で負えるだろうか。

責任を持てていると思っていた。いや、思いたかった。
けれどそれは、今までパートナーが半分持っていてくれていたんだ。
本当にやりたいことがあるのに後回しにして動けない自分をフォローし続けてくれたのもパートナーだった。
そんな人のもとから離れ、私は一人で立つことができるだろうか。
長い年月をかけて作り上げてきた、あたたかい居場所を去る覚悟は。

自分一人で何ができるのだろう。

でも、その頃から実は感じていた感覚がある。
この大きな岐路の道、どちらも進むにはとても苦しいのだけれど、ある一方の道の先を考えたときは直感的に嫌な気がしない。
心は苦しい、けれど直感が邪魔をしない。

ハッとした。
もしかして、私の中にもう答えが出ているのでは。

不意に心がモヤつくことがある。
色んなシーンで、直感的に「なんかちょっと、嫌」と思う感覚。
けれど今までそんな風に感じる自分がおかしいのだと思っていた。
そんな感覚がある自分が、なんて狭量なやつだと思えて嫌でたまらなかった。

きっとこの直感は今まで私にずっと教えてくれていたのに。

苦しみの中に見つけた直感的な感覚があることを認めたら、心のざわめきが少し穏やかになった。
そして、私の覚悟が決まるのを待たずしてもう道が決まったように感じた。

大丈夫、この先を進んでいっても大丈夫。
不安も恐怖も消えないけれど、私なら歩いていけるはず。
心のどこかで、ようやくこの瞬間が訪れたと静かにピントが定まるような感覚がした。
大嫌いだった弱くて心の狭い自分は、本当の願いを持った自分だった。
私はきっと今まで、この瞬間を経験するための人生を歩んできた。


決断する

どちらに進むかの覚悟が決められない理由はたくさんあったけれど、それを困難にしていたものの正体のひとつは、きっと思い出だ。
決断してしまえば、あたたかい思い出たちを裏切ってしまうかのように思えていた。

けれど、不意に思った。
思い出を手放すような決断をすることを本当は望んでいるから、手放すことが怖いのでは。
私の心や感情とは関係なく、私の魂が、そうなる事象を望んでいるのでは。

手放すこと。
それはきっと、捨て去ることでも跡形もなく消えることでもなく、自分自身が次の場所へ旅立つためにただ手を振るだけなのかもしれない。
手元にはもうないけれど、きっとどこかに今も存在している。
ただそれだけ。でもそれでいい。

そうして私は手放して、どんな場所へ行きたいのか。
そう考えた時に、野を駆ける馬を思い出した。
私は馬が好きだ。人を乗せず、自由に駆ける馬。
もっと言えば、その馬の目線で景色を見て、風を感じ、しなやかな鞭のように背骨をしならせ地を蹴る躍動感を表現し、自由と一体になる感覚を想像することが好きだった。
昔から馬は、私の中で自然と命と自由のイメージ。
それを十分に発揮して最大限に生きてみたいとずっと憧れていた。

苦しくて途方もなく思えたこの岐路は、私が自分の本当の願いに目を向けるチャンスだったんだ。
きっとこの岐路に立った時に魂はもう定まっていた。
心が苦しんでいたから、私は苦しかったんだ。ただそれだけ。

そう気づいたら、あれだけ覚悟の付け方が分からず苦しんでいたことが嘘のように、知らないうちにもう覚悟が決まっていた。
苦しみは消えない、けれどこれから進んでいく道に体も心も魂も納得した。

それからは、流れに乗るだけだった。

その瞬間はきっといつか必ず訪れる


ここまで来るのに、もちろんだけれど、私一人で悩み苦しみ解決してきたわけではない。
そばで支えてくれる大切な友人たちがいた。
苦しい中でも自分を見失わず、自分の感覚を信じられたのは、まぎれもなく周りで支えてくれた人たちがいたから。
導いてくれる人たちがいてくれた私は本当に幸運だったと思う。
今でもそう。
そういう意味では、私は今でも誰かに大いに寄りかかっている。
岐路を経た今でも自分一人だけの足で立つ覚悟なんてついていないのかもしれない。

誰かに寄りかかること。
それが悪いということではなくて、それができることは幸運なことだと思う。守られているということ。

でも、自分の人生に責任をとり精神的に自立しようとすると、むしろより一層大きな何かに守られると感じている。

岐路を経た今、漠然といつも大きな何かに守られている安心感がある。
その安心感に、心の底から感謝が込み上げてくる。
この気持ちになれてよかったと本当に思う。


覚悟という言葉は、「覚」「悟」の二文字とも「さとる、さとす」という意味で、悟りを意味する二つの文字から成っている言葉だそう。
迷いからさめ、悟りに至ること、真理をさとること。
覚悟を決めることは、きっと自分一人の力じゃどうにもならなくて、関わってくれる人たちの存在や、何かもっと大きなものの力が必要なのではと思う。

覚悟が決められないのは弱いからではなくて、体と心と魂が合致した時に初めてそのチャンスが訪れるだけのことなのだと思う。
その瞬間は、進んでいないような苦しみの日々の中でもきちんと迫ってきている。
そして覚悟を決められる瞬間というのは、きっと自分の本当の願いに耳を傾けられた時にやってくるのだと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?