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断想:耄碌することの怖さ


まず耄碌って自筆で書けないですからね。そのくせこんな主題で綴ろうとするなんて。まぁお許しください。

生まれてからだいぶいい歳を取りました。健康とは言えないまでも、致命的な病気やけがをせずにそこそこやっています。そして両親もまだ健在です。

みなさんは、自分の聡明さに自信を持っていますでしょうか?

これものすごく難しいし、ものすごく怖い話題だと思うんです。わかりきっていることだけど、自分は生まれてから死ぬまで自分でしかありえなくて、どんなに寄り添っているつもりでも他人には成りきれません。また、自分をどれだけ客観視しているつもりでも、主体が他所へ移ることってないんですよね。

だからこそ、家族や親しい友人、仲間の存在は大事にしないといけないわけです。彼らには自分と同じかそれ以上に聡明であってほしいし、自分に何かあったときには適切なアドバイスを与えてほしいなと思います。

なぜこんな話をというと、やはり年々親が老いていく様子が、手に取るようにわかるから。また、もっと幼い頃でしたが、今は亡き祖母が自身のその衰えによって、自我を失っていくことを目の当たりにした強い記憶があるからなんです。徘徊する祖母に「おばあちゃんそっち行っちゃダメだよ」ってほんとうに言いました。

耄碌するって怖い。自我を失うって怖い。

あまり過激なことを書きたくはないし、あくまで自分に対してだけの話なんですけど、ボケたらもう〇してくれて構わないと思ってるんですよ。だって嫌だもんね、他人に迷惑かけて自分は夢の中って。

こうして拙いながらも普段創作をすることは、何よりの刺激となって、脳や精神のほどよきメンテナンスになっているかなとは思います。ただ自分では気づかないうちに、すでに劣化は始まっていることだろうし、はっきりと境目のあるものでもないから、ひやひやもんですよね。

ほんとうに、毎日毎日思います。アンチエイジングって言い方が正しいかわからないけども、若さを保っておけば耄碌しないかなって。でも、若い奴でもおっぺけぺーな奴もいるから、まぁそこは自分基準で保っていけばいいか。

あぁそう、若さを保つと若作りはぜんぜん違いますよね。無理して若いのにあわせてる壮年、老年は痛々しいだけです。あるがままに齢を重ね、老いを受け入れて、それなりに聡明さを持って生きていくのがなんとすばらしいことか。そしてそれがいかに難しいことか。わたしの目の前にそんな崇高な山がそびえたっています(漢字だと聳え立つって書くんだ!難しい)。

聳え立つじゃないけど、ほんといくつになっても知らないことだらけ、ゆえに吸収する手を止めないでいたいものです。そしてインプットだけではこれから先も加速度的に増えていく世の中の情報の渦に飲みこまれてしまうだろうから、しっかりと自分なりに咀嚼(また自筆できない漢字)して、アウトプットを続けていけたらいいなと思います。

死ぬまで学ぶっていう考えの方は多いと思いますが、さらにアウトプットまで考えている方は比較的少ないのかなと勝手に考えています。創作を前提に置いていると、その前段階として絶対に思考回路が動きますからね。ボケ防止にはこれがいいんだろう、と。

ちなみに、たまに言いますが読書苦手なんです。書いてるほうがよっぽど楽だぜ。

まとめますと、いい歳ですけどいまだに揚げ物やらハイカロリーな料理が好きだし、たくさん飲み食いできて困っちゃうどうしようという話です。トップ画像は新宿の紀伊国屋本店の地下にある(あった?)カレー屋のやつです。だいぶ昔に撮影しました。

みなさんごきげんよう。







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