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フィクションの話Ⅱ

仁和寺にある法師 勝手に続編

※創作なので途中事実や時代背景とはつじつまの合わない事柄もあり


※元ネタ「徒然草第52段」 ほとんどの人は中学校で習ったと思われる。

リンク先「仁和寺にある法師ー徒然草から」あらすじと要点
https://kyoukasyo.com/junior-high-school/buddhist-priest-in-ninnaji-temple/


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さて、麓の極楽寺・高良を石清水八幡宮だと思い込んで本殿を見ずに帰ってきてしまったこの法師、やはり口惜しいと思い再度参拝すべく石清水に向かった。

今度こそはと男山を登る道すがら、どこかの良い家柄の人に違いないという優美で気品あふれる参拝客に出会った。

「そなたも頂上まで行かれるのか?」

「はい、私は本殿を拝みに参ったのですが、さらに上まで行けるのですか?」

「うむ。展望台があってな。京の町が一望できるんじゃ。頂上まで行ってこそ、この男山と平安京の歴史を感じられるというものじゃよ。」

「ほ〜、良いことを伺いました。本殿だけでなく、是非とも頂上まで登ってみたく存じます。」

「うむうむ」


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石清水八幡宮本殿にて

「これが本殿かー。さすがに立派だ。ありがたやありがたや。


よし、今日は頂上まで行くとするぞい。道はどこだ?こっちか?いや裏手か? あっ、あの小道かのう。」

※実際にはメインの参道を上るだけだが、そこは1回目の参拝であり得ないことに途中で帰ってしまった「思い込みエリート」のこの僧、お経以外のことには滅法弱くまたもやボケを発動してしまった。


と頂上への道を探しているところに、本殿の神官らしくはない、おそらく参拝の常連客らしき男が近づいてきた。

「おい、本殿はこっちだぞ。」

「ん?いえ、私は本殿を探しているのではなく、、、」

「こっちだって言っているだろう。そんな裏道に行ってどうする。はは〜ん、お前さん、田舎者か。いいか、参拝の手順はまずそっちで記帳して、それからあっちの手水舎で手を清めて、、、」

「いえ、そうではなく私は、、、」


「なんだお前、何も分かっていないくせに口答えか? そんな裏手にお宮さんなんぞあるわけがないのは考えたら分かるだろうw

いいか、俺は毎日参拝に来ていて石清水のことは何でも知っているんだ。境内は俺の庭みたいなものさ。

八幡宮の教えも※護国寺の説法もぜんぶソラで言える。いいか、神仏の教えというのはな。。。」
※境内に併設の寺



長話


「・・・そ、それは凄いですね。(ワシも一応高僧なんだけどな・・・山のお宮さん参りのために袈裟を着ずに質素な格好で来たのが行けなかったか。。。)でも、私は頂上までの道を探してまして、、、」


「頂上なんかに行っても何もないわ! 

・・・何か怪しいな。さてはお前、盗みを働こうと物色しているな? 不届き者め! 神主になり変わってお縄を頂戴してやろうか?」

「い、いえ、違います。もう立ち去りますから、どうかご勘弁を。。。」

「おう、お前みたいに何も分かってない輩が来るところじゃねえ。さっさと帰りやがれ!

まったく不届き者がいるもんだ。神主様に代わって俺が守ってやったぜ。わはは。」


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「ふうう。いったんここまで来ればもう目が届くまい。改めてこっちの道から頂上を目指そう。」

「おおっ、着いた、ここが頂上か。

・・・何という絶景!上から見たら平安京の条坊が一目瞭然じゃないか!何と規則正しく作られているのか、美しい。。。

男山に石清水八幡宮を置いた意味も分かったぞ。ここなら確かに裏鬼門の守護として南西の方向から京の都に入る邪気を止めるために作られたというのも納得だ。対である鬼門の比叡山もきれいに正面に見えるぞ。凄い凄い!」

しばし絶景を堪能した法師は仁和寺に帰り着くと、頂上からの景色と中に住んでいては見えない京の都の本当の美しさを語って回った。

その話の中で、

「そういえば、石清水の本殿付近に野暮な御仁がいたなぁ。あなた方も参拝に行く時は気をつけなされ。まあ本殿だけ見に行くのなら無料であれこれ世話してくれるありがたい先達には違いないとは思うがのう、

まあ何というか神仏の教えは確かに大事にしているのだろうけれど、これまで毎日参拝してきてある程度まで達した自分で身を立てているんだろうかのう。

確かに詳しくはあったけれど、もう少し神仏の借り言葉として話せば良いのにのう。頂上には何もないと断じる前に当たり前の景色の中に真理があることに気づけるかどうか、気づくためには歩みを止めないことが大事だと思うがのう。。」


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さて、自分を見つめ、より高みに向かって奮励努力してきたこと自体は自信に思って良いと思うのだが、高みを知っていると思ったら実はさらに上の景色があり知らない世界が広がっていた。。。。なんていうもったいないことがないようにしたいものである。


現実には頂上までの道には先達がいないので、自分で道を見つけるしかない。

そしてたぶん、何年も住んでいる街並みが上から見たら全然違って秩序立って見えたというような、いつも目に触れて知っているはずだけど知らなかった全容が見えるという感覚が味わえるのかもしれない。


※実際の男山は標高145Mの山登りには物足りない高さで、鎌倉時代とはいえ登ること自体はそんなに苦ではなかったと思われる。(今は麓からケーブルカーで石清水まで行ける。)

※徒然草の本編でも、エピソードがいつの時代の誰ともはっきり書かれていないので、そもそもフィクションであるのかもしれない。随筆であるし。


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