【閲覧注意:内容が汚い】きたない僕がぜんぜんかわいくない…

 涙は、他者の涙をさそう。
 アニメキャラの涙って、どうしてあれほど尊いのだろう。一滴、すうっとこぼれ落ちる。あとからあとから溢れて、キャラクターの思いは涙へと昇華されている。強い想いが象徴となったものが、涙だ。女優の涙もいい。眦がほんのりと赤くなり、疲れ果てた様子に目薬で落としたような涙が付加されている。どこか退廃的で、とても綺麗だと思う。
 しかし、本題はここからである。現実の人間の涙はどうにも美しくない。キョウカンしろ、とでも言うように自分の心が他者の顔に切迫される。何かしてやらないといけない、声を掛けなくてはならない、しかし自分に対処能力がない、などと、自己嫌悪もいつのまにか加わり、大変面倒である。涙を出した顔はくしゃりと歪み、皺が寄って、目は赤くなって、とにかく醜さをつくした有様である。
 もしその人の同情できる事情をしっていた場合なら、そのような醜い涙でも醜くなってしまった過程について共感し、深く移入することはあるだろう。だが、たいていの場合涙に深い事情はない。人とは基本的に自分が大好きな生き物だから、人が泣くとき、それは自分のために泣くのだ。それでは一緒に泣いてやる義理がない。

 こんな非人間みたいなことを書き連ねたが、これは自分が泣いている場面を想像しながら恨みを込めて書いただけだ。
 自分もやはり多くの人間と同様に、自分のために泣いている。可哀想な自分が可哀想で泣いているのだ。無様な格好で。
 だから、「泣いているぼくはぜんぜんかわいくない」というわけだ。可哀想であれば救われる気がしている。「可哀想は可愛い」というから。でも、それはやはりかわいい外見をもつ人物に限ったことだ。かわいそうなぼくはかわいくない。それなのに一人暗くした部屋の中で、しくしくと泣いて救いを待っている。

 最近、吐きそうになる。一回は自室でちょっと吐き、もう一回は大学生活に向けた別れの前日、家族の前で盛大に嘔吐した。お腹がいっぱいになったときでなく、初対面の人と出会うときなど、緊張する場面で起こる。家族以外の他人の前で吐いたことはまだないが、そうなってしまえば一巻の終わりである。
 最近、尿が漏れるのではないかという強迫観念に襲われる。トイレに一度行ってから30分後に始まる。実際には膀胱の容量にまだまだ飽きがあるのだが、漏れるんじゃないかと一度感じはじめるとトイレに行きたくて行きたくて仕方がなくなる。映画館や講義中など、トイレに行きたくても行けないときに限ってこの事象は起こるので、とてもしんどい。ばかみたいだ。

 大変汚い話を失礼した。

 この状況、ぼくが大好きな百合漫画「きたない君がいちばんかわいい」に似ていないだろうか。ちょっとしたネタバレになるが、きたない「ひな」をかわいがる「愛吏」は自作した大量の弁当を無理に食わせてひなを嘔吐させ、おしっこを我慢させて漏らさせるなどしている。絵柄がかわいいので、とてもかわいい。
 しかしどうやら、この漫画とぼく個人との状況にはだいぶ大きな隔たりがあるようだ。まず一つ、ぼくには愛吏がいない。そして第二に、きたない僕はぜんぜんかわいくないということだ。

 これが救いようのなさである。どれだけぼくは必死に可哀想になろうと、ぼくは誰からもかわいがられることはない。もし仮に、地球が明日終わるくらいの確率で、きたないぼくを可愛がってくれる誰かさんがいたとしよう。
 そんなの、ぼくが許せない。汚物が映り込む光景を俯瞰視できない。

 きたない人を可愛がることのできる、たぐいまれな趣味を持つ人間がいるのだとしたら、きたないぼくよりも他の、救い甲斐のあるかわいい誰かを愛でるべきだ。それが世界平和のためであろう。
 ぼくは救われない。

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