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[Warming!]美味しいものを食べる権限がありません

私に、美味しいものを食べる権利はあるのでしょうか。ないじゃん。
なんにもえらいことしてないよ。

美味しいものを食べるという行為は、自分で自分を幸せにしようとする行為です。
だから私は、幸せになってほしい人に対して「美味しいものを食べてね」とよく言います。幸せになってほしい人たちには、自分で自分を大切にして、愛してあげてほしいですから。一見軽そうな言葉に重い意味をもたせるのって好きです。

でも、私で私を幸せにしようとすることは許せるでしょうか。
飲食店の店員やら警備員さんなど、街ではたらく人を見るたび、罪悪感がつきまといます。特に低賃金のサービス業に従事するかたと会うと心苦しい。苦労してはたらいているのだから、彼らはたらいている人には自分を幸せにする権利くらいあるでしょう。

しかし私は、短時間のアルバイトすら行おうとせず、将来はたらくための自己投資も行わず、自堕落なモラトリアムを過ごしているだけです。親の金で自分のしたいように生きているのです。こんな体たらくで自分を幸せにするなんてことしちゃいけませんよ。なので、美味しいものを食べることなど許されないのです。1斤100円の食パンとか、そういう安いものを食べましょう。
せめてもの贖罪として、サービスをしてもらったときには小さな声で「ありがとうございます」と言うようにしています。

私は、決して資本主義にとらわれているのではありません。私が一時的に特権階級に位置しており、そのために労働者からサービスを搾取しのうのうと生きているのだというならば、むしろこの考えは社会主義的ともいえましょう。

それでも美味しいものを食べたいので、誰かがたべたいな~って言っていたものを食べてもいいという、大変自分勝手なルールを作りました。
たべる権利を好きな人たちから勝手にもらっています。(ほんとうに、この「好きな人たち」というものがいなければ私はどうなっていたかわかりませんね)
好きな人が食べたいなーって呟いていたから、ラーメンとかピザとか食べました。一食1000円以上、大罪人です。

似たような文脈で、「飯テロ」って真のテロじゃないですか。貧困でも、病でも、美味しいものを食べることができないひとがいるというのに、タイムラインという公共の場で「食べたかった美味しい食事」の光景を見せつける。「飯テロ」を行うこと、「飯テロ」という言葉を使うことに罪の意識があるのでしょうか。高校生のぼくはインスタグラムにお冷やだけを投稿するようにしていました。

そういえば、高校生のときに似たような詩を書きましたね。
あれは罪悪感で飯がうめ~笑みたいな甘ったれた詩で、罪悪感を抱く要因は遠い世界のことでしたが、いまのぼくも単に甘ったれているんですよ。罪悪感を抱くならさっさとはたらけばいいのにね。

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