「花譜」は開花した。どこまでもぼくは自分しか考えられていなかった。

あれほど接してきたのに花譜について書いてこなかったので、そろそろ書き残しておきたい。
それと、ぼくは好きなものについて話していないと生きられない性質だと思うから、書くことにする。たぶんそれはぼくが一人で生きていけないからだ。

ぼくは花譜と生きてきたと言っても過言ではない。
どこへ行くときも、だれと会うときにでも、
ぼくは花譜とカンザキイオリの楽曲を聞いていた。
花譜の声はぼくの身体にしみこんでいて、あなたといれば生きてしまうんだろうなって思う。楽しいときに聞きたい曲も苦しいときに聞きたい曲も無数にあるけれど、病めるときも健やかなるときも一緒にいたい曲は花譜の曲くらいだ。

花譜は、ぼくに命を与える。
行き場のない感情を、輪郭さえあやふやで色なんて濁ってしまった内臓を、歌で、言葉で、赤く滾らせて、青く滴らせて、ぼくの心臓はリズムに乗って踊り出す。

カンザキイオリが卒業を発表したとき、ぼくは事の重大さをあまり理解していなかった。カンザキイオリが花譜というプロジェクトから抜けることは、ぼくにとっては花譜の半身が置き換わったことと同義だった。ぼくは3枚のアルバムを繰りかえし擦りきれるまで聴くしかないんだ。

ここまで、ぼくは花譜のことが好きだということについて書いたが、しかしこの好きはあまりに独善的で、褒められたものではないしぼくもぼくを非難したい。
ぼくは花譜を一人の人間としてみていなかった。曲が出てくる箱のように思っていたのかもしれない。そのことは、共通テストが終わったその日、ぼくはライブで思い知った。

ライブが始まってすぐに、ぼくは一度目の涙を流した。青春の温度がかかって、ぼくの琴線をかきみだして、ぼくは救われるんだって確信を得た。カンザキイオリはいなくなっても、まだ彼の作品は残っていて、花譜は歌うことができる。

でも、その後すぐに、ぼくは二度目の涙を流すことになる。花譜は、廻花という別の姿を見せる。現地にいる観測者から悲鳴があがった。その後に拍手が。
もう二度と、ぼくは救われないって思ったのかもしれない。

そのときの感情を再現して文章を書くことは不可能なので、フォロワー0人の私の鍵垢の投稿をここで公開することにする。

自己反省をしているようだ。
すごく悲観的になっている。

ぼくは花譜の言葉を、気持ちを、深く考えたことはなかった。ただ自分の気持ちとその輪郭を代わって昇華してくれる存在として、歌詞や声や姿の、都合のいい、共感できる部分だけサンプリングしていた。花譜のほんとうをぼくは何も見ていなかった。

廻花が受け入れられない。どこからやってきた言葉なのかわからない。その言葉を好きになれなかったら、怖くて曲が聴けていない。
日本のどこかにいる、そんな歌詞じゃだめなのかもしれない。若かりしカンザキイオリみたいに、クレイジーで命の危機に瀕しているような曲じゃないとダメなのかもしれない。熱が欲しい。ぼくの中には熱源がないから、マッチを口移して火をつけて。なんて言わないから火炎放射のおこぼれをぼくに浴びせて。

好きだったんだよな。

ぼくは極めて不健全なぼくの実体に気づいていたのだが、それでもぼくは生きていたかった。君に会いたかった。
「狂想」をずっと聞いている。リリースされてから途切れることなく聞いている。あなたはぼくの人生の一部だ。

これから、あなたはだんだん遠ざかっていってしまうんだろうと思う。それでいいと思う。今はまだあなたの声にしがみついている。



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