瓶の中の花

 生けられた花は、花瓶の水から出してしまえば意外と早く萎れていくものだった。水が抜けきって、中身はすでにすっからかんだと気づくころにはとうに手遅れで、潤いも美しさも失った茶色い何かは存在価値をなくしている。
 自分の家という、花でいう瓶と水のような適応環境から離れてしまえば、私も当然枯れて生命活動を終えてしまうのだった。雑草なんかはすごい。人に踏まれてもなんとせず、あれは場所を変えられてもしぶとく生きていけることだろう。私がシロツメクサのようにあれなかったのは、自分の不手際というか環境のせいか、なんというか。そもそも生け花というのは摘まれて根をちょんぎられたあと生かされているだけで、私も快適環境を与えられるというのは一人で生きていくことをやめさせられたも同義で。それは私のせいじゃないことは確かで、でもそこから頑張ろうとしなかったことが私のせいだ。いずれにしても、大人になれば親から離れるというのは必然で、私は身の程知らずにもほどがあることに一人ちょろちょろと動きたがりな騒がしい花だったものだから、いずれこんな状況になっていたのだ。そうして私は終わっていた。だから今の状況は何もおかしくないし、理不尽でもないしだから憤りを感じる必要もないのでした。
 死ぬとき、私は病室の中で穏やかに、看取られるのだと思っていた。世界の想像外が多すぎて痛みと結びつかず出力されてしまった出来損ないの「死」という幕引きの概念に、失恋のような切なくも甘美な響きさえ覚えていたのかもしれない。
 世界の見方が甘過ぎたのだと思う。舐めきっていたというか、あまり痛みを感じないように解像度のパラメータを下げて、そうしてちょっと苦い世界を愉しもうとする。大人と子どもの間をそうやって続けてきたのは、成長を拒むズルさだけだった。外からもれる叫び声を聞こうとしないままに、固く窓を閉じてしまう。厚いカーテンをそっと除けた真夜中。部屋の外では、痛みが満ちていたのだろう。知識として知っていた。同情や、憐れみの気持ちもあった。その程度だった。自分は、そういうぼんやりとした中で生きていた。そのまま死ぬはずだったのだ。
 終わりの際に、ようやく知ることになるのは、良いのか悪いのか。まあいいや、このまま痛みのない場所に向かうのだから後腐れはない。そんな、達観ともよべるちょっとした境地。


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