だれかがみている20200908

銭湯に行った。

やっぱりおおきい風呂はすばらしいし、足はのばせるし窓もあることがとてもいい。ずっと一人暮らしの風呂に窓がないことがとにかく苦痛だった。実家の風呂からみえる青空と山やまがすきだったから、風呂に窓がないだけで息がつまる。心が安らぐわけがないのだ。

喉がかわいて、缶のポカリスエットを買った。120円。番頭のおねえさんが「ここで飲んでいかれます?」と。頷くと「ジョッキ。よかったら。冷えてるジョッキと氷、いります?」と笑顔で言ってくれ、私はありがとうございますとはにかんだ。お姉さんは冷蔵庫から慣れた手つきでジョッキを出して、氷をたくさんいれて、「どうぞ」と出してくれた。たぶん、飲み物を買うお客さん全員に言っているんだろう。でも私にはそれだけでじゅうぶん嬉しかった。こころが弱っているんだなあとおもった。缶のポカリスエットがあんなに美味しかったことはない。

まえから、追い詰められると銭湯によく行った。

職場に半ば勢いで「もう一切出勤できません」と伝えてしまったけど、もう取り返しがつかない。取り返しのつかなくなるまえに行けばよかった。

体だけでもどうにか安らげるように行くのだけれど、おおきな風呂にはいっているあいだ、なにも考えずにいられるわけがなくて、けっきょく何かを考えている。やっぱりいつもどおり、文章のことを考えていた。

まえから、銭湯を舞台に何か書きたいなあとおもっている。都会に出て夢破れた青年が、実家の銭湯にかえってきて、地元にのこった青年と再開する、そういう青い話を思い描いている。このさい形にしようとおもう。どこかの賞に送れるかもしれない。最悪、じぶんを慰めるためだけに書いてもいい。小説を読んでくれる友だちから褒められるためだけに書いてもいい。もう文章しか私を救ってくれない、私にはもうこれしかない。

もうじぶんを救う手立てが文章しかなくなってしまった。

カルチャーはわたしをほんとうの意味では救ってくれない。ドラマも映画も漫画も音楽もだいすきだけれど、何度も何度も救われたけれど、あれは日常の対症療法というか、なぐさめにすぎなくて。日常が日常としてちゃんと安定しているけれど、それでもなにかしらの壁にぶち当たったときに、まだ明日もその日常を過ごしていくためのエネルギーであって。日常が瓦解したとき、わたしとは関係のないところで残酷にもカルチャーは続いていくから、結局のところ、本気で救ってくれるものではないのだ。

労働とお金は、ただ身を削って、身を削ったぶんを、お金の無茶な使い方で補填することしかできないから、きっと合わないんだろう。労働の仕方に問題があったのかもしれないけれど。じぶんもまともになりたかったから、ひとと接していけばまともになれるだろうかとおもって接客業を選んだ。というか、じぶんに確信をもってこれならできますと言えるのがアルバイトでやってきた接客しかなかった。だからこれならやれるとおもった。ただ知らないことに対する逃げだったのに、じぶんは明るくて人当たりがよくてコミュニケーションがちゃんとできる人間にだってなれるだろうと思い込むことで可能性を広げようとしていた。人生の可能性はとっくに狭まっているのだから、そんなものはただの無謀だった。大学まで出ているのにいまさらゼロから広げられる可能性なんかあるもんか。今までの文脈に縋るべきなのだ。縋ればよかった、素敵な仕事がまっていたかもしれない。もちろん、そっちで心をぶっ壊したかもしれないっていうのもあるし、自分が望んだ仕事で心をぶっ壊したら、ほんとうに死にかねない。そういう分岐もまたおそろしい。けっきょくいま現実として、ほんとうにあるのは、ストレスから逃げたくて全部投げ出してしまったいま。文章しかないなら、いまこの時間でどれだけ文章がかけるかにかかっている。まだ負けていない。わたしはまだ負けていない。


20200908


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