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無駄

初投稿かつ、長いコンテンツを書くことが久しくなかったので少し多めに見ていただけるとありがたいです( ;  ; )


今日まで気づかなかったことがあった。
それは「無駄は決して無駄ではない」ということ。

今まで、と言ったら言い過ぎだが、高校生あたりからか、どう無駄を省くかだけを意識して生きてきた。例えば、試験には一発で受からなければいけない。一発で目標スコアを取らなければならない。などである。つまり、きっと効率面でしか物事を見ていなかったのだろう。それに加えて、失敗を過度に怖がり、人に迷惑をかけることも嫌ってきた。今回結果を出さなければ周りに示しがつかない。迷惑をかけたら嫌な顔をされるだろう。と。体調を崩してダウンしているときですら、「こんなことしてる時間に何かができるのに。」と自分を責め続けている。そうこうしている間に、いつの間にか早3年が経っていた。

正直、非常に窮屈だ。本当は、もっとのんびりゆっくり生きたいのに。高校を卒業してからゆっくりできた時は片手で収まるくらいしかない。電波の届かない場所で草木もない砂漠で4日間過ごした時。『アラジン』の実写版を見た時…。
確かに、私はいろんな人と話し、楽しい時間を過ごしたり、自分を高めることをしたり、時折深い話をしたりすることなどが好きだ。現に、私の周りには心優しい友達、優秀な友達、知識や経験の豊富な、一緒にいて楽しい友達がありがたいことにたくさんいる。また、日々少しでも勉強を重ね、人に言っても恥ずかしくないような(?)資格は取ることができている。

しかし、心のどこかで常にせかせかしている自分がいる。全てにおいて正解を探し、無駄のない最短距離で、いかに失敗なく効率よくゴールに辿り着こうと必死に生き急ぐ自分がいる。今までの生活の影響なのか、はたまた環境の影響なのか。

この今まで、「無駄」と考えていたことが、今日先輩の話を聞いて、少し認識が変わった気がしている。
もちろん、正規ルート(ここでは、「一般的」にいう、一番早く目標達成ができる方法のこと)でゴールに達することが良いとされているし、一番褒められた方法である。また、このルートから逸れると「普通」ではない。ズレた人だ。と言われることも多いのだろう。
しかし、良いとされているこの「正規ルート」は「みんな」にとっての最善の方法であり「私」にとっての最善の方法ではない。なぜなら「私」自身には一義化された「みんな」とは違う、何物にも変えられない個性を人それぞれ持っているからだ。そう考えると、ルートを外れて少し回り道をしてしまったり、または側溝にはまって転けてしまったり、それも「個性」であろう。

先輩がおっしゃっていたことは、「最短ルートでいかない無駄こそ豊かさであり、工夫であり、個性である。それが自分らしさにつながる。余分なものにこそ個性が宿る。」ということだった。

私は今まで個性を潰して、またはこの先潰そうとして生きていたのか。そう実感させられた。
そりゃしんどいわけだ。3年間病み続けるわけだ。そう感じた。
とはいえ、この先まだ最短ルートを目指してしまう生き方をしてしまうかもしれない。今までそれに囚われてきたのだから。そうであっても、もっと心の赴くままに行動していいのだ。と前より思うことができたのではないかと考えている。たとえそれが好ましくないことになっても、全て自らの糧になる。失敗したって死ぬわけじゃない。今飛び込まないであとで大怪我するよりいいのではないか。そう思えた。また、「テクニックよりもっと鍛えるものがあるだろう」と言われた気がした。少し肩の力を抜いて行動して見ようかと思う。

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