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私は幸いにして・・・(望郷詩人佐藤春夫を想う)

1.世界遺産・熊野古道の玄関口 新宮

 新宮市は和歌山県南東部、熊野川の河口に位置する人口25,000ほどの中核都市である。熊野三山のひとつ、熊野速玉大社の門前町であり、豊富な木材の集積地としても発展してきた。街の中心に位置するJR新宮駅は、亀山駅(三重県)から和歌山市駅(和歌山県)まで紀伊半島をぐるりと一週する長大路線である紀勢本線のほぼ真ん中にある。現在ではここが、JR西日本とJR東海の境界駅となっている。今ではここを境に運転系統は東西で分離されているが、かつては全線をひた走る優等列車が存在した。

紀勢本線


かつての気動車特急くろしお

 1965年3月に誕生した気動車特急「くろしお」である。朝に天王寺駅(大阪府)を出発し、和歌山、白浜、新宮、尾鷲、津と紀伊半島を一周して、亀山駅(三重県)でのスイッチバックを経て夕刻、名古屋駅に滑り込むというロングランな旅路である。当時は白浜や勝浦など、南紀は新婚旅行のメッカで、食堂車も連結した堂々たる編成だった。1978年に新宮以西が電化されると、運転系統は新宮を境に分離されることになった。大阪方面からの特急「くろしお」は新宮止まりとなり、東側の非電化区間には、新たに名古屋行きの気動車特急「南紀」が設定された。

 また、そのころまでは紀勢線の大阪方面の優等列車はすべて天王寺駅発着であったが、2004年以降は新大阪駅に乗り入れている。天王寺駅の一段高い紀勢線専用ホームから乗車した当時が懐かしい。当初は大阪駅を経由しなかったものの、昨年から「うめきた」ホームの開業で大阪駅に停車するようになり、京阪神側については格段に利便性が向上したのである。特急「くろしお」は白浜まではほぼ毎時1本設定されているが、新宮までやってくるのは6往復に留まる。白浜-新宮間は海岸に近く車窓の風景は素晴らしく、青い海と空がどこまでも続いている。新宮以東の非電化区間をゆく特急「南紀」は4往復、わずか2両のミニ編成である。険しいリアス式海岸を長大トンネルで走り抜けてゆくが、こちらも合間に見える景色は見ごたえタップリだ。

新宮駅

  「紀伊山地の霊場と参詣道」が12番目の世界遺産に登録されて、今年でちょうど20年になる。熊野へは海外からのインバウンド旅行客が急増し、結果として内外から高い評価を受けることになった。これは「熊野の大自然」の魅力もさることながら、「祈りの地」であることから、人々が生きるエネルギーを頂くことができることにあるのではなかろうか。もっと多くの人たちがこの地を訪れることを願うのである。

2.望郷詩人 佐藤春夫

若きころの佐藤春夫

 佐藤春夫は小説・詩・随筆など多彩な活躍をしたが、彼は1892年(明治25年)、新宮市船町で9代続く医者の家に生まれた。1904年(明治37年)、県立新宮中学へ進み、短歌や歌論を学ぶ。卒業後、慶応義塾大学に入学、のちに中退するが、絵画に熱中し「二科展」に3度入選するほどの実力となった。1918年(大正7年)、谷崎潤一郎の推薦により文壇にデビュー、翌年「田園の憂鬱」で新進作家としての地位を確立することになった。

谷崎潤一郎

 彼と親交のあった谷崎には29歳の時に結婚した妻千代がいた。美貌で知的な彼女は当時理想の女性像とも言われたが、夫婦の間はすでに冷え切っていた。悩む千代夫人の相談にのったのが春夫だったのである。自由奔放な谷崎は千代の妹のせい子に恋をして、何と本気で結婚を望んでいたのである。春夫の千代への同情は相談の度に恋となっていった。谷崎は当時、小田原に住んでいたが、彼の不在時に春夫はやってきた。その時の食卓にのぼったのが秋刀魚(さんま)だった。この時の心情を唄ったのが「秋刀魚のうた」である。冒頭部分を以下に引用する。

  あはれ
  秋風よ
  情(こころ)あらば伝えてよ
  -男ありて
  今日の夕餉に ひとり
  さんまを食ひて
  思いにふける と。

 この詩を発表したのが1921年(大正10年)、春夫29歳、千代は24歳の時だった。2人の関係に気づいた谷崎は千代を春夫に譲ると提案する。だが、千代の妹とは結婚にいたらず、彼との口約束を破棄したため、春夫とは絶交してしまうのであった。およそ10年の後、谷崎は千代と正式に離婚した。これを受けて、春夫と千代は結婚した。この時、谷崎、佐藤、千代の3人の連名で挨拶状をだしたところ、「細君譲渡事件」として社会に大きな反響を呼んだのである。

 1935年(昭和10年)、芥川賞が制定されると、選考委員に選ばれた。のちに多くの新人作家たちに慕われて、「門弟3千人」と称されるほど、多数の作家が彼の下から輩出した。井伏鱒二、太宰治、檀一雄、吉行淳之介、柴田錬三郎、遠藤周作、安岡章太郎などの有名作家たちである。近代文学に大きな足跡を残した彼であったが、故郷の新宮をこよなく愛し、「望郷詩人」とも呼ばれたのであった。彼が生前、父・豊太郎らにあてた書簡120通が新たに見つかり、佐藤春夫記念館と実践女子大学のチームが発表した。1930年(昭和5年)に彼が脳溢血で倒れた直後に書かれたものや、「細君譲渡事件」前後のものも含まれており、筆者は昨年末に佐藤春夫記念館で開催された企画展「佐藤春夫、家族への手紙」で見ることが出来た。春夫や千代の家族愛の深さを実感する展示であった。

佐藤春夫記念館(移転のため休館中)

 1964年(昭和39年)5月6日、東京五輪の開幕5ヶ月前、彼は自宅で民放ラジオの録音中に急逝した(享年72歳)。「わたしは幸いにして・・・」と語ったところでの心筋梗塞による急死だったのである。医者の家庭に生まれながらも、好きな小説・詩・随筆・歌論・絵画等でその能力をいかんなく発揮するとともに、谷崎との葛藤、千代との熱烈な恋愛など波乱万丈ながらも、逞しく生き抜いた男の言葉だったのではあるまいか。この言いかけた言葉こそが、多くの新人作家を魅了した彼の生涯を集約したものだったのだろう。(完)

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