続・遊牧民族的な血である件について
実に久しぶりの投稿になります(と、今まで何度書いたことだろうか)。
いきなりですが、自分の持論である「年齢なんて単なる数字」を否定します。年齢にはちゃんと裏付けがあるのですというお話をば。
随分昔になりますが、私は、自分を「遊牧民族的な血」と表現したことがありました。よく、「狩猟民族的な」とか「農耕民族的な」という表現はありますが、私はあえて自分をそう称しています。
13年前の私の日記からの抜粋ですが、この考え方は今も変わっていないような気がします。
同じ場所に長年居続けると、そこには愛着がわきます。愛着は愛情になり、貢献して主力となりたいという欲求が起こります。でもそれと同時に自己犠牲精神も芽生えます。
そこで次第に自分の中で大きくなっていく観念が、「潮時」です。
どんな集団でも、代謝が大事なのです。人の入れ替わり、若手の台頭。
長く居れば居続けるほど、「経験」や「前例」などという、何の論理性もない役に立たないものに縛られ、ひいては代謝の邪魔になります。愛する居場所に自分のせいで根腐れを起こさせる訳にはいきません。
だから、年季を経て歳をとるにつれ、いかに潔く去って新しい居場所を探すかが非常に大切な課題になります。
私の性分は、ホームランをかっ飛ばし、打点を叩き出す「4番打者」ではありません。むしろ犠打で地味にランナーを進め、チャンスを創り出す「2番打者」です。
唯一無二の存在ではありません。知識や技術の継承はさほど難しくありません。その地位に長年しがみつく社会的な意味など、微塵もありません。
ところで、現在の私の確たる居場所といえば、せいぜい「ツイキャス」くらいでしょう。今いるツイキャスも、5年続けた「ニコニコ生放送」から移住してきたという経緯があります。
移住した時は、かつてのリスナーは殆どと言っていいほどいなくなりました。私にとって全く新しいプラットフォームは、見える景色がまるで違う異世界でした。
私の配信スタイルは、ニコニコ動画に動画投稿を始めた頃から殆ど変えていません。
はるか12年前、私のような「姫」を名乗る音楽配信者や動画投稿者はゴマンといました。オーバーサイズのニットベストやニーハイソックスも、当時の定番のままです。今は見かけなくなりましたが。
もしかしたら、ツイキャスではそれが新鮮に見えたのかも知れませんが、入れ代わり立ち代わり、リスナーは一定数を保ってきました。ブレイクこそしませんでしたが、穏やかで暖かい空間でした。
でも、そろそろ下火を迎えようとしています。
かつて、美容関係の仕事をしていたことがあります。
それはずっと会社員(社畜)だった私にとっては何もかもが新鮮で、刺激と変化に富んだ、実に魅力的な世界でした。
私独特の、愛情や自己犠牲精神が炸裂しました。努力が結果に結びつかなかったとしても、向上心が空回りしていたとしても、光の当たらない裏方で「虚しい」と感じたことは一切ありませんでした。
持病で動かない体に鞭を当て、自分に多大な投資をして、できうる限りの思考と行動を何度も何度も繰り返して、それこそ自分の第二の人生をそこに捧げていました。
でも、その日々も長くは続きませんでした。
時代の変化とともに、私はいつの間にか、「経験と前例」のみに依存し着実に老いていたことに気付いていなかったのです。
髪の毛のように、細く辛うじてつながっていたその「糸」は、私自ら断ち切りました。
「年齢なんて単なる数字」でしょうか?
同じ場所に居続け、着実に老いさらばえながら、私はそんなことが言えた柄でしょうか?
おそらくは、居場所を変えて自分をまたゼロリセットし、新しく始めること。それを延々と繰り返し続けない限りは、それは「私の言葉」にはならないでしょう。
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