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西垣 通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書(2013)

西垣 通『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』中公新書(2013)を読んだ。

※私の所属するジェイラボの公式部活動『基礎教養部』の活動の一環で挙げています。公式部ログ、800字書評は下記リンク↓

新書にしては濃かったと思う。もちろん、内容としては氏の永年の成果のほんの一部にすぎないだろうが、情報学や学際的な“知”に対する視点の一端を垣間見れたようで楽しかった。

本書を私なりに要約すると、

集合知とはHACSにおけるコミュニケーション及びプロパゲーションの結果生じる疑似三人称的な知であり、それは人間が閉鎖システムであるゆえに社会集団にとって必要なものである。今後集合知の発展は、生命体を機械化することを通してではなく、逆に機械を利用可能な形で生命体に組み込むことにより成し遂げられるべきであり、それが理想的なSEHS(システム環境ハイブリッド)である。

となる。ちょっと何言ってるか分からないと思う。でもこの薄い新書を一冊読むだけで、「あ~はいはいたしかに」となると思うので、興味を持たれた方は一読してほしい。
本記事ではスポット的に本書を読んで感じたことを留めておきたい。

■徹底して自律的な閉鎖系としての心
オートポイエーシス(APS)理論とは、自己創出という観点から生命体をとらえ、生命体と機械を峻別する理論である。細胞は、外部から与えられた設計図無しに、自分と似た細胞を次々に創り出す。だから「オートポイエティック(自己創出的)」な存在らしい。西垣氏は我々の“心”もオートポイエティックな存在であると述べている。心の中では、「思考」という出来事が継続して生成消滅している。過去の思考に基づいて、現在の思考を自己循環的に創出していくのが心というオートポイエティックシステムなのだそうだ。
でもちょっと待ってくれ。自分が何を思うかは、過去の自分が何を思ったかによって決まるとして、じゃあその過去の自分の思考は・・・?さかのぼっていくと赤ん坊になってしまう。確かに外部からの入力では無いから、“自律的”であって自己に“閉鎖された”システムであるとは言えそうだ。でもなんだか全然“自分”でコントロールできている気がしない。
・・・ここでいう“自分”って誰だっけ・・?私の思考は外部により他律的に定まっているわけではないが、同時に今認識している“自分”にとってコントロールできるものでもなさそうだ。じゃあ、“自律”の“自”とは何なのだろう。

■自分による自分の侵食を自覚するとき
表現しづらいのだが、私はこれまでの人生で時折、自分が自分に取って代わられていく、といった不思議な感覚に包まれた瞬間があった。ある状況で、いつも感じるはずの感情とは別の感情が心の中から湧いてくるのを感じるのだ。いつもその瞬間は一瞬で消えてしまう。怖い上司に怒鳴られても、何ともなくなる。部下を叱るときに淡々とモノを言える。今までの自分からするとらしくない自分への変化の際に、“今までの自分”の残滓が戸惑っているのだろうか。だとすると、その不思議な感覚を感じた瞬間、まさに今までの自分は死んでいっているのかも知れない。上記、心のオートポイエティックな面を考え、そんなうすら寒さを感じた。

■暗黙知の明示化・活性化
人間の知識の中には、明示的、形式的には表現できない知があり、それが個人だけではなく組織の活動の中でも有用な役割を持つということは広く知られている。ポラニーの定義によれば、暗黙知とは近接項と遠隔項という2つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を“理解すること”であるらしい。これは細部を知りながらも、かといって細部を意識しすぎるでもなく全体を見る、という感覚だろうか。言語化はしづらいが感覚としては良く分かる。
卑近な例だが、私はきれいなパワーポイント資料を作ることが苦手だ。A4用紙1枚に、内容として価値があり、且つ相手に読みやすい分量・デザインでまとめる必要があるのだが、その塩梅に関するセンスが私には絶望的に、無い。上手な同僚の作業プロセスを見ると、一つ一つのコンテンツの質には留意しつつ、でも時には全体バランスのため、文字数を削減したり、違う短いワードに置き換えたり、あるいは図表で表現したりと部分と全体への交互の気配りとそのバランス感覚がすばらしい。私には一生マネできない、まさに職人技であると感じる。
また、私の尊敬する大学の先生は、私が上手く実証分析結果が出せずに相談に行くと、大体、データ群の記述統計や統計モデルを見ただけで、何が問題かズバリ言い当てる(しかも大体の指摘は正しい)。
著者の西垣氏は、将来IT技術の発達により、これまで暗黙知とされてきたものの明示化・活性化に期待を寄せる。私には上記のような卓越した技量を明示化する方法についてまだ想像すらできない。もしそんな未来が実際に来たら、そのとき、私はどのような形で世の中に存在価値を示せるだろうか。


以上、つらつらと感想を述べてきたが普段、あまり思考をめぐらすことのない”知”そのものに関心を寄せる良いきっかけを本書はくれた。感謝したい。
また西垣氏の著作について目を通すことがあればどこかで触れていきたいと思う。



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