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運よく進退窮まらなかっただけの私が、『アカデミアを離れてみたら』の陰に捧げる私的なあとがき

過日、岩波書店さんより『アカデミアを離れてみたら 博士、道なき道をゆく』と題する本が出版されました。この本は2020年春に始まったWEB上のリレー連載をまとめたもので、21名の博士の体験が綴られています。連載の初回を担当した私は、ポスドクを11年続けた末に研究の道を諦め、なんとか民間企業に転職したエピソードを寄稿しました。同じように就職に悩める博士の、何かしらの参考になることを願って書いた文章は、聞くところによるとずいぶん多くの方に読んでいただけたそうです。また、記事をきっかけに新聞に取り上げてもらう機会にも恵まれ、私なりにポスドク問題の認知向上に貢献できたのかなと思っています。(なお、出版にあたり連載の公開は終了しましたが、私の記事は試し読みとして全文ご覧いただけます。)

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そんな記事の公開から1年半ほどの間、他の博士の体験談やネットに流れる感想、そして新聞雑誌の書評などを拝読してきました。記事を書いてよかったと思うこともある反面、私の胸中には薄暗く、モヤモヤとした思いが膨らんでいました。せっかくの本に景気の悪い話を添えなくても、とためらう気持ちもあるのですが、私には大切なことのように思えるこのモヤモヤを、せめてこの本に関心を持つような方には知ってもらいたく、私的なあとがきとしてここに公開します。

以下、長文になりますが、各段落の最初の1,2文を拾い読みすればおよその論旨がわかるように書きました。お急ぎの方は適宜飛ばしながら読み進めてください。

大前提としての明るい感想

この本をきっかけに、自身の専門性に自信を持てたり、進路に関する迷いが晴れたり、あるいは思いがけない生き方を見つけたりする院生や博士がふえるといいなと思います。同時に企業や自治体など、アカデミアの外の方々にも多様なキャリアを知っていただくことで博士の活躍の場が広がり、よりよい社会につながることも期待しています。こうした効果は私が語らずとも、多様な体験談が指し示すところですし、実際、私が目にする書評の多くもそうした論調でまとめられています。類書のないこの本が、引き続き、多くの方の目に留まることを願っています。

私の気がかり

本の出版を喜ばしく思う一方で気がかりなことがあります。それは、アカデミアの外に出ることが難しい分野の博士の気持ちです。この世に数多ある分野の中には、アカデミアの外で専門性を生かしやすい分野もあれば、応用が困難な分野もあります。たとえば私が専門としていた「花と虫の共進化」は、(役に立たないとは決して言いませんが)社会への応用からはほど遠い、いわゆる「お金にならない」分野のひとつです。それでも私が露頭に迷わずに済んだのは、データ分析という汎用スキルが時代の需要にマッチしたという幸運によるもので、専門性のおかげではありません。他分野の事情に明るくありませんが、本書に文系の博士がほとんど登場しないのは、その専門性を経済活動の中で生かすことの難しさと関係していそうです(※最後に追記あり)。そうした分野間の格差をふまえず、「アカデミアを離れてみたら?こんなに例があるんだし」と、およそ実現不可能なロールモデルを差し出すことがあるとすれば、専門性を生かそうにも生かせない当事者の苦悩をさらに深くしそうです。

また、社会への応用ではなく、あくまで研究を続けたい博士にも本書は遠い存在かもしれません。もし望み通りの研究を続けられるのであれば、博士はアカデミアを離れることを厭わないでしょう。しかし、経済性や短期的な成果を重視せざるを得ない民間企業で本当にやりたいテーマを追求できる可能性は、たとえ応用的な分野でも低そうです。もちろん自ら会社を起こして理想を実現するパワフルな方もいますが、そこには別の才能と、努力と、やはり世間の需要が必要です。アカデミアを離れることがそのまま研究の終わりを意味する博士もいます。研究対象へのあくなき好奇心のままに博士の道を歩んでいるタイプにとって、知りたいことを追求できない環境はとりわけ辛く感じられるのではないでしょうか。

以上の、あたかも他人を心配しているように書いた文章は、そのまま昔の私が本書に抱いたであろう感想でもあります。一年先も見えないポスドク末期の私がこの本を読んだとしたら、博士の活躍の場の広がりを喜びつつも、自分の目指す先とは異なる世界の成功体験にやり切れない疎外感を覚えそうです。下手をすれば私の体験談に対しても「運よく就職できてようござんしたね」と毒づきかねません。

そんな自身の心情を酌みながら、大好きな研究と引き換えではあるけれど、露頭に迷わずに済む一抹の可能性があることを伝えたくて体験談を書きましたが、運よく本に寄稿できる立場にいる時点で生存者バイアスとの誹りからは逃れようがありません。苦境に立たされている博士にとって私の言葉は、ここに綴った憂いも含め、安全な立場からの無責任な物言いとして響く可能性があることを、少なくとも私は自覚すべきでしょう。自覚していて欲しいと、ポスドク時代の私なら願うからです。

生存者バイアスをふまえてもなお、21名それぞれの再現性のないn=1の集まりから何かしらのヒントを見出す人はいるでしょう。ただし、あの本だけでは救われない博士がおそらく大勢いることにも、目を向けて欲しいと思うのです。

研究者のキャリアの途絶がもたらす社会的損失

もちろん目を向けただけでは問題は解決しません。「博士が安心して研究を続けられるよう、アカデミアに任期なしのポストを増やしてほしい」というのが私の究極的な願いですが、原資が公金である以上、おいそれと叶うものではないでしょう。実際、以下のような声はすぐに思い浮かびます。

・好きなことで生きていこうなんてムシがよすぎるのでは?
・リスクを承知で博士課程に進んだのだから自己責任では?
・役に立たない分野の研究者など不要では?
・他にも苦労している人は大勢いるのに、博士を特別扱いするのか?

賛否はさておき、どれも理解できる意見です。理解できるがゆえ、私はずっと耳が痛くて仕方がありませんでしたし、不遇を訴えるだけでは議論が平行線を辿りそうなことも、悪くなるばかりの環境のなかでヒシヒシと感じていました。

何の役に立つのかわからない研究の重要性や選択と集中の危うさについては私なりに一家言をもっていますが、歴代のノーベル賞受賞者をはじめとする様々な立場の方がより説得力のある提言をされているので割愛します。代わりに、アカデミアを離れた私の目から見えるもう少し卑近な、しかしお涙頂戴とは異なる話を書こうと思います。

研究者としてのキャリアを中途半端に閉じ、専門性を生かす機会を失った私が社会の一員として感じるのは、せっかくの投資を打ち切ることのもったいなさです。というのも、私が大学に入学してからアカデミアを離れたあの日まで、大学の運営費や給与、研究費などの形で、少なからぬ公金が私の成長と研究の進展に注がれました。その投資が打ち切られることで様々な社会的資産(と私が考えているもの)が失われます。以下、順に述べていきますが、自ら望んで研究を離れた方に対し「投資したのにけしからん」と言いたいわけではないことにご留意ください。

まず、その分野の研究者が失われます。修士と博士を合わせて通常5年はかかるように、研究者として独り立ちするには長い時間を要します。そして、独り立ちといってもそのスキルはまだまだ未熟で、以降の研究生活で少しずつ磨いていくのが普通です。ある日突然その分野が重要になっても、経験豊富な研究者を即席で育成することは不可能です。

出るはずの論文も出ません。私の手元には書きかけの論文や、継続してデータをとる必要のあった研究テーマがそのまま放置されています。研究成果は論文として出版されて初めて世界に共有されますが、手元の成果は人知れず朽ちていく運命かもしれません。

新たな研究も生まれません。皮肉な話ですが、私がアカデミアを去った数日後、新たに3年分の研究費の採用通知が届きました。もちろん辞退となり、さらなる展開を期待された研究はなくなりました。私が申請書の作成に費やした時間や、審査を担当された先生方の貴重な時間も無駄になりました。

後進も育ちません。私が順調にキャリアを歩んでいれば今頃は自分の研究室を持ち、学生さんを育てていたでしょう。同分野の研究者は国内にもいるので分野が途絶えるわけではありませんが、私が姿を消したぶん、後進も減るので分野の裾野は確実に狭まります。同分野の研究者や学生との議論で新しいアイデアが生まれることはザラですが、そうした、人数の単純な足し算では測れない相乗効果も失われます。

海外とのパイプも切れます。長いポスドク街道の中盤で留学の機会を得た私は、向こうで近い年代の友人を作ることができました。彼・彼女らとの共同研究はもちろんのこと、互いに研究室を持つような年になれば学生を送り出したり、受け入れたりする機会も出てきます。ただ、そうした未来は訪れません。国際的な研究の不足をなじる声を聞くと、私の心はザワつきます。

以上、話を盛った感はありますが、重要なのは私の自己評価の真偽ではなく、今もどこかで研究の道を諦めざるを得ない研究者が存在し、その先に積み上がったであろう様々な成果が(せっかく公費を投じてきたにもかかわらず)失われようとしている現実です。その中には、私たちがアッと驚くような発見が含まれているかもしれません。いないかもしれません。誰にもわかりません。

苦しい国の財政のなか、研究を続けたい博士がその専門性を生かせない形でアカデミアを離れることを、損切りできてよかったと考えるのか、これまでの投資は無駄になるがやむを得ないと考えるのか、あるいは損失が大きいので対策が必要だと考えるのかは、個々人に委ねられています。政府は若手支援に舵を切っているので手遅れだという話も聞きますが、衰退し続ける国の学問の早期回復を願うならば、即戦力である中堅研究者への支援が何より効果的だと思います。とはいえ私の文章は研究者の味方になりがちなので、他の方の意見も参考にしながら、じっくり考えていただけると嬉しいです。

おわりに

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『アカデミアを離れてみたら』の帯には「道がないなら、私がつくる。」との勇ましい文字が並んでいます。実際、立ちはだかる困難に勝負を挑み、茨の道をかき分けながら自己実現を果たしていくエピソードには畏敬の念さえ抱きますし、冒頭の大前提に書いた通り、そうした物語によって新たな物語が生まれることを私も願っています。

一方で、その専門性が道を拓く武器になりにくい、“自助”による解決が困難な分野も存在します。不意に起きる痛ましい事故に「他人事ではない」との呟きが集まるように、自助だけでは抜け出せない迷路に苦しむ博士は大勢いるように思うのですが、私の杞憂でしょうか。

アカデミアを離れたくても離れられない人や、不本意なかたちでアカデミアを離れざるを得ない人は一人でも少ない方がいいはずです。政府に見捨てられた世代からすれば若手支援のニュースなど素直に受け入れ難いものがありますが、つまらない思いをする人は少ない方がいいに決まっています。研究者を失うことによる様々な損失を防ぐ上でも、世代を限定しない支援が広まることを期待しています。

以上が、華やかな本の陰で疎外感を味わっているかもしれない博士に(安全な立場からで申し訳ないと思いながら)捧げる、援護射撃のつもりで書いた私的なあとがきです。アカデミア内外に関係なく、多くの人にとって拙文が「この状況はよくないかも」と考えるきっかけのひとつになると嬉しいです。およそ叶わないことを承知の上であえて、青臭くてたまらない理想で締めますが、分野や年齢に関係なく、アカデミアを離れたい人は自由に離れ、残りたい人は自由に残り、戻りたい人は自由に戻る、そんな社会になることを(なっても手遅れの私にとっては心底面白くありませんが!)心の底から願っています。

あとがきのあとがき:私が知りたかったこと

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今年の10月初め、昔の調査地で花と虫をどうしても見たくなり、ポスドク後期を過ごした思い出の地、愛してやまない山形になかば衝動的に出かけました。若干遅めのシーズンでしたが、ノコンギクやミゾソバの花に虫が飛び交う光景は5年経った今も変わらず素晴らしく、私が手放してしまった世界を前に(研究を続けたかったなぁ)としばし感傷に浸りました。とはいえ体験談にも書いた通り、安定した私生活を手放すこともできない私は、20年近い研究生活を費やして築いた「人生のもしも」の重みを再確認したわけです。こうなることも覚悟の上で歩んだ道ですし、最善と思える選択を重ねて至った現状に後悔はないのですが、ただただ「ままならない」と感じます。

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連載の初回を担当し終えた頃の私は、私と同じように不本意にもアカデミアを離れた博士が、なお続く人生にどう折り合いをつけ、ときに湧き上がるモヤモヤを宥めているのか、その心の動きや処世術を知りたくてリレー連載の更新を心待ちにしていました。ただ、みなさん自重されたのか後ろ向きな話は少なく(かくいう私も自重したわけですが)、いま思えば明後日の方向を向いていた私の期待は、宙ぶらりんのまま今日に至ります。こんなとき、何かしらの文学や哲学、芸術などが“役に立つ”と思うのですが寡聞にして知りません。どなたか私におすすめの小説などを教えていただけると嬉しいです。ちなみに本のあとがきには、私の回の反響がもっとも大きかったと記されています。連載の初回だった効果もあるとは思いますが、湿っぽい体験談を読みたい層が一定数いるのではと想像するしだいです。

謝辞

隠しきれない私の不遜が顔を出しまして、記事を寄稿したずいぶん後になって謝辞を書き忘れたことに気づきました。今さらで説得力に欠けますがここに記します。まず、長年楽しく研究を続けられたのは周りに恵まれたからに他なりません。今でも研究を好きでいられるのも彼、彼女らと、魅力あふれる生き物たちのおかげです。個別に名前はあげませんが本当に感謝しています。また、得体の知れないポスドクを雇った会社にも感謝しています。まさに拾う神です。岩波の担当者氏にも感謝しています。お声がけをいただかなければ人生の一部を書物に残すこともなかったですし、共感の声に救われることもありませんでした。そして、ここまで読んでいただいた皆様にもお礼申し上げます。分野や立場によって異論もあるとは思いますが、少なくとも私から見える世界は以上です。博士の置かれている立場は、そのキャリアの多様性を謳う本のメッセージ以上に多様であり、少数のサンプルに基づく過度な一般化は禁物だと思います。いろんな人が、それぞれの観測範囲から見える景色を持ち寄ることで、視野の広い議論につなげていただけると嬉しいです。万人の理想を満たす解はありませんが、誰もが「ここまでなら納得できる」妥協点が見つかることを願っています。

長々と書きましたが以上です。最後に「2021年秋 山形県某所の訪花者よくばりセット」を貼ってお別れしたいと思います。ありがとうございました。(2021-11-21)

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追記(2021-11-29)

記事の公開から1週間ほど経ったタイミングでログを確認したところ、7,600回も閲覧記録がありました(11月29日夕方時点)。長文にもかかわらず読んでいただいた皆様、ありがとうございます。記事を拡散・共有していただいた皆様や何かしらの感想を添えていただいた皆様にも感謝しております。賛否どちらの意見も知ることができ、私の狭い視野は少し広がりました。

さて、現時点で少々の追記がございます。

まず、本文中で「本書に文系の博士がほとんど登場しないのは、その専門性を経済活動の中で生かすことの難しさと関係していそうです。」と憶測を書きました。こちらについては「あくまで理系中心に書き手・語り手の方を探したためであり、社会で活躍する文系博士の見つかりやすさ/にくさとは無関係です」との話を編集者の方から伺っております。

また、私がアカデミアを離れたことに絶望し、過去に囚われ、嘆きながら人生を終わることを心配されている方がいるかもしれないのですが、おかげさまでそこまで悲劇的な思考には陥らず、いたって平穏な私生活を送っておりますのでご安心ください。もちろん過去を振り返りはしますが、私は絶望もしていませんし、「あとがきのあとがき」にも明記したように後悔もしていません。いずれにしても、そうしたご心配の可能性を深く考えなかった私の想像力と、気持ちを十分に表現しきれなかった筆力の問題です。お詫びすると同時に、お気遣いに感謝いたします。

話は少しそれますが、筆力の話で思い出すのは日経新聞の記者さんから「後ろ髪はひかれても、後悔はない」気持ちを言語化していただいたことです。彼はインタビューの際、取材相手に対する偏見や思い込みを自身が既に持っている可能性を前提とするかのように、丁寧に質問を重ねながら事実をひとつずつ確認し、同時に対象者の心の機微を注意深く掬いあげ、本人にも言語化できていなかった感情を的確な言葉で表現してくださいました。記者さんの、プロのジャーナリストとしての姿勢と腕前には感服するばかりです。

最後に、私が本書の価値を貶めたいわけではないことを重ねて強調しておきます。この時代に必要な一冊であることは間違いない一方で、どうしても、気がかりとして述べた問題が生じます。そのことをお伝えしたく、しかし本書の否定とは捉えられないよう慎重に書いたつもりでしたが、不快に感じられた方には申し訳なく思っています。それはそれ、これはこれとして、別個の問題として扱っていただけることを願っています。

追記は以上です。今度は山形県大蔵村にある肘折温泉の、私が大好きなカルデラ温泉館の写真を貼ってお別れです。ぬるめの炭酸泉が最高です。ありがとうございました。(2021-11-29)

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