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まわたのきもち 第10号

 「ピアノが消えたことから思う」

 大学の予算削減・資金確保のため、2部屋のピアノを徹去する。

 今年の冬、東京藝術大学(以下、「藝大」)のそんな情報を知り、衝撃を受けた。

 日本が各都道府県に国立大学を設置し、地域によらずあまねく大学教育の機会を保障するというこの制度は、この国の発展に一定程度寄与してきたと僕は考えている。これは例えば、今日現在の日本人ノーベル賞受賞者の出身大学が国公立大学の独壇場(28人の受賞者のうち、私立大学出身は2015年に医学生理学賞を受賞した木村博士だけ)であることからも明らかなことだろう。

日本全国にある国公立大学の中でも、芸術だけを専門とするのは藝大だけ(例えば教育大学などの美術教育専攻は、専門はあくまで「教育学」である)であり、当然、入学の門はかなり狭い。藝大は上野動物園や東京国立博物館などがある上野公園の一角にある。ここには文部科学省の出先機関もあり、大学院生時代にはここで学会もあったので、外からよく眺めた大学だ。

しかし、努力に努力を重ねて、難関を勝ち抜いて入学しても、その藝大は予算削減・運営資金確保のためにピアノを徹去しなければならない状況にある。これが今の日本の高等教育の現状なのだ。

僕は、大学院修士課程まで教育学を勉強した。特に地域の教育資源を生かした小学校・中学校・高校の教育課程のあり方に強い関心を持っていた。だから、大学をはじめとする高等教育(小学校までが初等教育、中学・高校及び中高一貫の教育が中等教育である)は門外漢で、無責任に大学教育のことについてコメントすることはできないが、それでも、藝大のピアノ撤去は衝撃だった。

日本は、「教育を受けるのにお金がかかりすぎる」という議論は、少なくとも僕が大学生だった時からあった。もちろん「自分への投資としてお金をかけるべきだ」という考えもある。よく比較されるのが、フィンランドやスウェーデンなど北欧との制度の差だ。北欧では幼稚園から大学院まで授業料・給食費は無料である(私立大学はほぼ存在しない)。さらに、原則大学生には生活費が支給される。実家暮らしか一人暮らしか、兄弟姉妹がいるかなどの事情により変動するが、その額は約2万円から約10万円であり、これは返済義務のある奨学金ではなく“支給”である。生活費がもらえるから、学生はアルバイトではなく勉学に励むことができる。もちろん、これら恵まれた待遇で学ぶためには入試で高い倍率を突破する必要があるし、このような制度を支える財源として税金は高い。しかし、その税金の使途として福祉や教育が充実していることは実感できるし、若い人たちの能力が将来の国を発展させる、ということを制度を通して国が明確にしている意義は大きい。

僕は、もちろんこれら北欧の国の教育制度は素晴らしいと思う。しかし一方で、この教育制度を維持するためには、我々が目に見えていない副作用も、きっとあるのだろうとも思う。だから、日本がそのまま北欧を真似すれば良い、なんて思わない。これからは、近い将来高等教育を受ける主体となる子ども達が、日本の教育制度の中だけで将来を考えるのではなく、世界的な視点で、自らが学ぶ場所を決めていける感覚と力を持ち合わせることが大切なのではないか。と思うのだ。

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