見出し画像

the Odyssey その3

2021年9月

 9月は僕の「ものを創る」姿勢が大きく変わる仕事があった。直接アルバム制作に関係のなさそうな話に聞こえるが、自分の中では外すことのできないマイルストーンとしてしっかり道の上に立っている。その仕事の内容もさる事ながら、それよりはそこで出会った人に僕は動かされたんだと思う。人との出会いは本当に大きな転換をもたらすとつくづく思う。
 その仕事以降、制作中の自分で自分を懐疑的に見つめる目線、こんなことやってて意味があるのか?という行動への猜疑心に対して、距離を置けるようになり、制作スピードは飛躍的に伸びて、何より作る事自体が楽しくなった。まだアルバムは完成には到達していないものの、ここまで(一休みする事はあっても)倒れる事なく登ってこれた。自分にとって本当に大きな意味のある出会いが、ベストなタイミングでやってきたと思う。
 それは3月に、あだちさんのアルバムのマスタリングに遊びに行かせてもらったとき知り合った、作曲家の西井夕紀子さんから頂いたお仕事で、普段は劇場として使われている横浜のSTスポットを使って、その場に居合わせた人と何もないところから音楽を作る、というものだった。
 西井さんはディレクターとして当日の内容、イベントに呼ぶゲストを考えていて、僕と知り合った時に「ピンときた」とのことで、声をかけていただいた。新しい試みすぎて、全員の認識が一致していたかどうか、今一つ自信がないのだが、僕の認識ではワークショップではなく、作曲講座ではなく、「本当に」音楽をゼロから作る、というものだったと思う。3日間の開催で、それぞれの日にゲストが参加し、最終日に期間中できた音楽をお披露目をする。しかし、どの日も録音はせず、集まった人たちの中に蓄積されたものを頼りに再現、というかもう一度音楽を立ち上げる当然待った同じものにはならないだろう。
 みんなでゼロから作るとき、何が必要なんだろう?曲のアイディア?コミュニケーション?当日のレビューはSTスポットのHPに詳しいので、ここでは詳細な振り返りは省かせてもらうのだけど、僕はきっかけになりそうな問いかけとして、「桃太郎はなぜ川から流れてきたのか?」を集まった人たちに聞いてみる事にした。僕が担当する時間にみんなで作った(作ってもらった)音楽は素晴らしかったものの、今でもこの「問い」と、当日の僕の立ち振る舞い、音楽がやってくるタイミングの掴み方、汲み取り方は、ベストだったのか、自分に問い続けている。この時の自分に対する違和感、問いかけが、みんなでものを作るときに、自分にできることを考えるきっかけになっている。ひとりで作曲するのは自分との対話が中心になるが、どうしたらみんながアイディアを出しやすい環境になるか、機嫌よくいられるか、自分の中にはどれくらいアイディアはあるか、と自分の内側と外側に同時に意識を向ける必要がある。それは自分をさらけ出す事で、人にもそれができる環境を作ることでもある。アイディアを出す、とはある意味その人の中にあるすごく繊細な部分を提示することでもあって、その場所に批判や否定があると、アイディアは出しにくく、ともしればその人自身が深く傷つく事になってしまう可能性が生じてしまう。それはものを作る=世界を良くする、とは逆方向に力が働いてしまい、なんとしても避けられなければならない。ものを作ることに含まれる、面白さと厳しさの両面を見る事ができた。ただ、厳しい条件下でもみんなで山の方が登ったときの達成感は大きい。
 
ところで僕は3日間のうち1日目を担当して、僕の前にもう1組ゲストが迎えられていました。THE PUSHというバンドで、西井さんは今このバンドと一緒に演奏するのが一番楽しいのだそう。

彼らは横浜市内の作業所に通うメンバーで構成された、人数、パート不定の有動的なグループで、この日は(この日はボーカルの)ヒサシさんと、(この日はドラムの)丸山さんが参加されていた。ヒサシさんは日頃書きためている歌詞やイメージがあり、この日はそれをもとに音楽を作り始め、僕もギターで参加させてもらったのだがが、とにかく恐ろしいスピードで作っていく。イメージが具体的で、それに近い例えばやサンプルがすぐに出てくる。イメージになるべく寄り添ってギターでコードを弾くと、すぐに歌になって、そのまま消えていく。形に残らないことに執着がない。自分の中のイメージと、他人が弾いたギターに齟齬があっても、直したり作り変えたりしない。たった今目に映っているもの、生まれ育った街の移り変わり、小さい頃の思い出、イメージの中の家屋、山並み、街など、ありとあらゆるものが創作の源であり、それを表現することに、僕が感じる限りは、全然ためらいがない。照れや恥ずかしさも見て取れない。作ることに対して苦しさもない、かと言って、大喜びするような感情の大波もない。嬉しさや楽しさ、ワクワクする感じはあったと思う。何よりも、精神が安定している。
 果たして自分は、と振り返ると、作るのも表現するのも好き。そこは同じ。でも、作品を発表することに対しては、照れや恥ずかしさが、まだ背中に張り付いている。最初のCDを出したことで、自分にも出来るという自信はついたのだが、自分の作品を人に聴かせることを思うと、どうしてもまだモジモジする幼いまさやくんがいる。ここが大きな違いだと思う。強い自己肯定感。
 THE PUSHのメンバーが幼い頃から励ましや、勇気づけてくれる言葉ばかりをかけられ続けたかどうか・・は分からない。でも、自分の過去を振り返った時に、やめておきなよ、とか、もうちょっと大きくなってからね、とか、そんなことすると恥ずかしいよ、とか、人に迷惑をかけないように、とか、そこはかとなく(親に限らず)大人の都合や価値基準で、時には善意のパッケージをかけて、経験を妨げる言葉が行き交っていた。そういう言葉の積み重ねの結果、音楽に限らず、自分の意見や思いを表現する時に、恥ずかしさを感じて当然だと思う。ある意味とても日本人らしく、日本に生まれ育っていたら、肯く人も多いと思う。でも子供の頃の自分は、もっとやってみたかったと思う。転んだり、傷付いたり、人の不機嫌を買ったとしても。
 行動の結果として与えられたものに、判断を加えて次の行動を変えていく事は必要だが、行動する前段階での判断は必要ない。絵を描いている途中から、完成した絵の販売価格は判断しなくて良いし、曲を作っている最中に、聞いたことある曲だとか、前と同じ部分があるとか、頭の中でささやきが聞こえたとしても、それに耳を傾ける必要はない。それは自分のささやきではないし、自分ではない人がそう感じたとしても、それはその人の大切な感性だ。それを歌い手が操作できるほど人は同じではない。作っている瞬間の僕は、今自分が聴きたいものを作れば良い。これは人に聴かせるべきものか、善として世に放って良いものかどうかは、出来上がってから判断したら良いのだ。
 そのことに気がついてからは、冒頭に書いた通り、道の途中で良い旅だったかどうかは考えなくなった。今回は、世に放っても良いと思えた8曲を用意する事ができた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?