忘れ物 #2020クリスマスアドベントカレンダーをつくろう

 その日の夕方彼女がコートを羽織ろうとしたとき、クローゼットの脇に心臓が落ちているのが見えた。

 その形や色味からして、彼の心臓であることに間違いはなさそうだ。彼女はこのあとコンビニへ出かけるつもりでいたが、そんなものは放り出すしかなかった。

 人差し指でそっと触れる。あたたかい。優しい湿り気が指先を濡らす。表面は、指に沿って凹んだかと思うと押し返してきた。健康的な弾力だった。

 彼女はしばらく思案した。

 そうだ、祖母が教えてくれたことがある。歯が折れたとき、牛乳に浸しておくといいんだって。

 ならばと大急ぎで台所へ戻る。築45年の床。一歩ごとに軋むが構っていられない。牛乳を電子レンジであたためる。収納の奥から大きなボウルを取り出して、そこへ牛乳、お湯を少々、照りを出すためのはちみつを加える。温度は36度。冬であることを考え、お湯を足して37.5度に。彼女はクローゼットへ走って、それを両手で優しく包んで、また台所へ。特製の液体にそっと浸すと、心臓は一粒の泡をふいて自ら沈んでいった。

 大きな音がして、彼女は振り返った。

 となりの部屋を誰かが訪ねてきたらしい。玄関ドアの揺れる音、跳ねるみたいな会話。楽器みたいな会話。雪の結晶みたいな会話。行先は駅前のイルミネーションに決まって、ふたり分の足音が少しずつ小さくなっていった。

「イブの日に心臓がないなんて……」

 彼女はまたコートを羽織ってため息をついた。そして、目頭を拭った。

 


『おう!』

 約束の時間どおりに、彼がスマホの画面に現れた。

「お疲れさま」

『そっちも』

「うん」

『雪、降ってる?』

「ううん。そっちは?」

『降ってない』

「どうだった?」

『まあまあうまくいったよ。取引先の方がすごく良いひとで、よかった』

「そっか」

『仲間もいたし』

「仲間?」

『イブの日に出張してる仲間だよ』

 彼は笑った。

『ごめんね、一緒にいられなくて』

「ううん」

『正月はなんとかするから』

「うん。ねえ、あれ買った?」

『おう』

 画面のむこうで、彼がコンビニの袋を掲げた。

『これで合ってると思うんだけど』

「スペシャル苺のクリスマスカップケーキって書いてある?」

『おう、書いてある』

「よかった」

 彼女はそう言うと、同じものを掲げた。

「じゃーん」

『おし、そろった』

「これで、となりで食べてるのと一緒!」

『おう!』

 時計が23時を知らせた。

 空は濃紺をもっと濃くしていく。しかし、街に浮かぶ窓という窓はすべて明るかった。ひとつひとつが温度となって夜空を少しだけあたためた。

「おいしいね」

『おいしいなあ』

「ちょっと甘すぎる?大丈夫?」

『すごくうまいよ』

「よかった」

『ごめん、こんなイブで』

「全然。すごく嬉しいから」

『よかった』

「ねえ」

『ん?』

「おととい、家に来たでしょ」

『おう』

「……」

『ん?』

「……ねえ、少し調子が悪かったりしてない?」

『まあ、ちょっと疲れてるかも』

「あのね……」

 彼女は立ち上がると、台所へ向かった。ボウルと、中に沈むものが綺麗に映るように、スマホを傾ける。

「これ……」

『ああ!』彼は目を見開いた。『君が持っていてくれたんだ!』

「クローゼットのところに落ちてたの」

『そうか、そんなところに!ずっと探してたんだ』

「ここにあるよ」

 彼は大きく息を吐いて、何度もうなずいた。

『よかった……よかった!君が持っていてくれたのなら本当によかった!会社のやつにでも拾われたらボロボロに踏みつけられるところだった』

「うん」

『本当によかった……帰るまで、預けておいてもいいかな』

「もちろん」

『ありがとう!』

 彼は深く頭を下げた。

「よりによって今日心臓がないんだね……」

『そうだね……いや、でも俺なんかより君が持っていてくれたほうがいいかもしれない』

「そう?」

『一緒にいられるだろ』

「そっか」

『ごめん、イブに仕事してて』

「まだ言ってる」彼女は微笑んだ。「私のところに落としてくれて、嬉しかったよ」

 彼は頬を赤くして笑った。

 心臓がふたつ、どくんと動いた。

サポートをお考えいただき本当にありがとうございます。