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ショートショート「再会」(小説でもどうぞ 選外佳作)

 母親からの不在着信は十件を超えていた。今からでも戻って謝ろうかと一瞬頭をよぎったが、その考えごと消すようにスマホの電源を切り、鞄の底にしまい込む。窓から外を眺めた。先ほど降り始めた雨は勢いを増し、バスの速度に応じて窓に斜線を残していく。ずっと親の言いなりに生きてきた私にとって、これは冒険であった。今日、私は十二年ぶりに彼に会いに行く。
 社会人一年目は、毎日出勤するだけでへとへとだった。高校と短大では、与えられた課題を期待された通りに埋めていればよかった。テストで高得点を取りさえすれば母は喜んでくれた。それなのに、社会に放り出された途端、誰もやるべきことを教えてくれなかった。
 右も左も分からない世界で、唯一の救いが彼だった。初日に道に迷っていた私に優しく執務室の場所を教えてくれた彼の笑顔に、私は一瞬で心を奪われた。それからというものの、午前の業務時間中は、早くお昼休みが来てほしくて十分に一回は時計を見ていた。一緒のテーブルでお昼を食べる時間が一日の楽しみだった。しっかりものの彼にはブロッコリーが嫌いという可愛いところがあった。そんな彼に、栄養バランスを考えてちゃんと食べなさい、と注意するのが楽しかった。彼はいつ見ても女の子に囲まれていた。にこにこと皆の話を聞いてあげながらも、困ったような顔でちらりと私の方を見ることがあり、その度に私はちょっとした優越感を感じていた。私にだけ見せる彼の表情に、私はますます惹かれていった。
「ゆりえちゃん、結婚しようよ」
 ある日、なんの前触れもなく彼は言った。始業すぐの慌ただしい朝の時間のことだ。少し離れたところでは忙しく同僚が走り回っていた。えくぼを浮かべた彼の笑顔からはその真意が読み取れなかった。冗談だろうとは思う。笑い飛ばすのが正しいのだろう。本気にしたら、冗談だったときに恥をかく。
「忙しい時に冗談言わないでよ」
 ぎこちない笑顔で返した私の目を見て、彼は少し笑った。そして、これあげるよ、と私のポケットに何かを入れた。何となくみんなの前で見てはいけない気がして、トイレの個室に鍵をかけ、ポケットから取り出したそれは、指輪だった。目にした瞬間、心臓がどきりと音を立てた。本気だったのだ。私は、彼の気持ちに真摯に応えることよりも保身を選んでしまった。選択肢を間違えてしまった、とそのときはっきりと感じた。
 もしかしたら彼はもう忘れてしまったかもしれない。何せ十年以上前のことなのだ。ただ、そんなこともあったね、と笑い飛ばすには、私の恋愛はそれ以降あまりにも上手く行かなかった。三十を超えても彼氏を連れてこない私に業を煮やして、母はお見合いを設定した。相手は少し年上のサラリーマンだった。写真を見たはずだが、顔ははっきりと思い出せない。優しそうな人だったような気がする。向こうだって私に大して興味はないだろうし、お見合いなんてこんなもんだ。
 こんなもん、こんなもんと言い聞かせながら顔合わせの料亭まで向かったが、入り口の前で足が止まってしまった。私だって、と小さく呟く。私だって、かつて愛されたことがあるのだ。結婚しようと、男性に本気で言ってもらったことがあるのだ。
 気がつくと私はバスに乗っていた。確証なんてなかったが、まだ彼はあの町に住んでいるだろうという予感めいた自信があった。
 目的地に着く頃には雨は上がっていた。足元を気にしながらバスを降り、顔を上げたその瞬間、目の前のベンチには彼がいた。あまりのことに息が止まるかと思った。偶然、いや、運命。これは運命なのだ。
 手を振った私を彼は少し怪訝そうに見る。思い出して、私よ。目に力を込めて見つめ返すと、彼はようやく気付いたようだった。
「もしかして、もも組のゆりえ先生?」
 怪訝そうだった彼の顔が、左頬のえくぼのあたりからほぐれるようにほころんだ。
「うわ、懐かしいな。卒園して以来だから……十二年ぶりですか? よく僕のことがわかりましたね」
 お昼寝の時間に撫でた可愛らしい背中はすっかり大人の男の広さになっているが、笑うと糸のように細くなる目は昔のままだ。愛おしさが波のように押し寄せ、目が潤むのを感じる。心中を気取られないように軽く微笑み、何でもない話のように切り出した。
「久しぶりね。もう十八歳になったのね」
 ようやく結婚できる歳になったね。

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