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自尊心と孤独感

自尊心を尊重すると孤独を愛することもできるが、自尊心のないところへ向かうと孤独感に苛まれることもあるというありふれた話を書きます。

まず初めに定義をしておきましょう。読む上でこのnoteの中だけである可能性は心得ておいてください。

自尊心とはなんたるか、私なりの理解を書くとするならば「自分が自分のことを尊重(≒大切にできているか)できる余裕」のことを指していると思っています。自尊心を英語で書けばPride。プライドと書くと「高いと出る杭を打とうとしてくる人も現れるのではないか」と心配するかもしれませんが、出る杭を打つような人間はそもそも付き合いをする必要はないのでそこは避けてください。

例えば、私が二次創作をしていると17歳ばかりが推しであるが故に「17歳」を書くことが多く、高校3年生の17歳の人間に「道徳」や「善悪の指針」などまだ固まっていないことを痛感するわけです。やはり周りの大人の言動に影響を受けるし、どこか脆く感じられます。私はその脆弱な姿に美しさを覚えますが、同時に脆さに対して責任を持つことはできないと感じることもあります。

倫理について問えば、周りの大人の意見は十人十色。それはそうでしょう。人生経験はすべての人物で異なるわけですから、Aさんの意見が○○であったとしても、Bさんから聞けば△△が正しいと言い始める可能性は否めません。

思春期において、周りの人間の言葉はどれもこれも正しいように感じられたり、思い込んでしまったりすることは大いにあります。実際、答えというものは一つではなく無限に発散しているものです。その中で誰を信じればいいのか、葛藤をするのが思春期なのだろうと思うばかりです。例えば17歳から見たら、27歳など滅茶苦茶大人に見えるかもしれませんが、27歳なんて社会人5年目でまだまだ若輩者でしかないのです。ただ、10も歳が離れていると、どこかなんでも知っているような感じもして、余裕があり優しいようにも見えてしまいます。その人にはその人なりに精神的な余裕がないものですが、流石に10個下の子達が余裕なさそうに見えるような素振りは見せないでしょう。

私は学生時代の私を思い返すと、以下が大切にされると良いと思っています。自尊心とは、自分の人生を振り返った時、積み重なった日々の集大成のようなものです。塵も積もれば山となるを精神で表したものだと思っていただければと思います。美しく積み重ねれば美しくなるでしょうが、汚く積み重ねて仕舞えば見るに堪えないものになります。

  • 後悔しないように、自分自身の選択を尊重する(もちろん自分自身の選択には「それを選んだ責任」が伴われる)

  • 「教養」を得る(視野を広げることができる/判断で迷った時の指針にもなるため)

  • 相談先は複数確保する。バランスの取れた視点を持つ必要性(1人の意見は1人の指針でしかなく、それは絶対的に正しいわけではないため

  • 素直である。嘘をつかない(嘘をつくと自尊心が削れるため)

  • 尊重されない関係性をわざわざ大切にする必要性はない(長期的につながっていた方が利用できる可能性はあるかもしれないが、自尊心は削れるため)

  • やらぬ後悔よりやる後悔は8割型は事実だが、全てのケースに当てはまるわけではない

  • 信用のできる先で将来が明るくなると思えるようなことはがむしゃらに努力すると良い(学内成績より、学外の成績の方が外部の人間には判断しやすいため

何が言いたいかと言えば、将来のみに全振りするのであれば、別に学内の人間関係などドブに捨てて実績だけ求めても外部の人からしたら評価されます。故に、無理に好きでもない人と交流する必要性はないと考えています。

ただ、縁ができたこと全てを諦めることは違うのです。本当に豊かなことを教えてくれる恩師、美しい世界を教えてくれた先生、私に対して影響を与えることを避けつつも祈りを込めていてくれた先生、たくさんいます。そういった当時や今現在わからなかったとしても、またわかりにくかったとしても、善意を込めて接してくれる人や関わってくれた人は見失わないで欲しいと願うばかりです。

私は小中高の箱庭時代、いじめにあったこともあり、(それ以外の要素もあるのですが)自尊心を失い、ひねくれたことがあります。故にクラス会のようなものにもほとんど参加したことはありませんし、一度だけ同窓会に参加した時には高校時代の延長で「人権のない」側の扱いをされ、散々な思いをしました。

↑参考

自尊心を大切にしようとすると孤独感に苛まれます。何故なら無理に付き合うこともしなくなってしまうため、仲良くしてくれる人を選別しているからです。でも、尊重されていない環境で無理をすることも精神は孤独なんですね。何故なら自尊心を削ってその場にいるからです。常に孤独は隣にいて、人間の精神にとって親友なのかもしれません。その時に自分を大切にするか、長期的な視点で利用できるものを大切にするかは人それぞれ好みがあると思います。

私はどちらを選んでも正しいのではないかと思うのです。例えば学内行事であれば一生に一度しか行うことができず、経験は代え難い財産だからです。経験をすることはお金では買えない価値です。現役の学生にしかできないことなのです。ただ、それよりも大切なものがあると思ったり、その経験をする時に経験以上に自尊心を破壊され苦痛を強いられたりする時まで経験をする必要があるのか、私にはわかりません。

選択とは、それを選んだ人間の責任が結果を生みます。その人間が選んだ時の価値観、感性、倫理、道徳、教養がその時の選択の先を生み出すでしょう。私からできることは私の視点を出すことと、その時に必要なヒントになる古典を差し出すくらいです。全人類は菜根譚を読め。

そうは言っても私は大学1年までの学生に「善悪の指針」を振りかざすのは少し躊躇います。感性が磨かれていない可能性が高いからです(それ以上の学生や社会人は自己責任です)。

なんか話が発散したな。結論としては、自分の責任は伴うけど、自分がやりたくないこと、やらなくていいことの指針は「自分のことを大切にできるか」で選ぶと良いと思います。勿論、その行動の先に美意識的によろしくない未来があるかもしれませんし、人から見たら「異端めいたことをしているのではないか」と思われる可能性はあります。ただ、私も含めた周りがどう言おうが、自分の人生は自分でしか歩めません。自分が後悔しないことを選ぶことが私は大切じゃないかと思うばかりです。

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