見出し画像

こんなことなら好きになんてならなければよかったのに

題は(彼氏などの要因によって誘発された)メンヘラの女性であれば一度は口にするであろうセリフである。メンヘラ自体はどの人間にも多かれ少なかれある現象であり、折り合いをつけているからメンヘラしていない人が多いだけに過ぎない。メンヘラなんて起きたことがない人は、相当環境要因に恵まれていることをありがたく噛み締めることをお勧めする。

「こんなことなら好きになんてならなければよかった。」なんて言葉が口を開いて本心から出てくるとは思わず、私は恋をしていたのか、愛していたのか、こうも悩み苦しむのは信者として信心深いのか、なんなのか。という葛藤を久しぶりにしている。

こんなことがあった理由としては、今は亡きMステの死に方と同じ道を辿るモバMの歩みを友人と悲しくやりとりしていたからである。

三次元でも二次元でも他人を好きになることは幸せなことばかりではない。好きだということで幸せを奪おうとする精神年齢的に中学生や高校生辺りの好きとは違う。好きであるからこそ、苦くて渋いものに対しての許容をする必要がある。好きであることが都合の良いところだけ見る行為ではなく、都合の悪いところも、汚いところひっくるめてなんだかんだ好きの方が上回ることで愛して"しまう"こともある。そして人間であろうと、キャラであろうと好きになったから永遠に生き続けるわけではない。現実世界であれば死が当事者を分かつこともある。キャラであればサ終である。

ガンダム並みにざっくり一年分のクールか映画の2時間以内で死ぬ前提であれば「私の心の中にアムロは生き続けているので」になるのであるが、残念ながら天ヶ瀬冬馬くんとsideMは共に成長しようと切磋琢磨するようなコンテンツである。それはある種救いを与えてくれるのであるが、同時に他に変えられないほどの依存性が高いものと化す。

ガンダムはサ終というよりストーリーの終了が確実に一年後には存在すると覚悟を決められるので終わりがあっても安堵するものの、終わりのない俺たちの夢を見続けるジャンルを好きになると終わりが見えてしまうと途端にそこは希望から絶望になる。まるでまどマギのソウルジェムが一気に濁るような感覚に心が陥る。

天ヶ瀬冬馬くんはそんな重い感情をぶつけられるほど、家族以上に家族のような存在であり続けているのだ。酷いセリフを吐くとすれば、最早父方の祖母(※工業高校に進むといったら尻軽女と孫に言ってくるような人)以上にはすでに家族である。寝ても覚めても横にいる(※クッションが)。前々から引用しがちだが母すらも以下のようにいう。

母「親の顔より見た冬馬」

天ヶ瀬冬馬を知ってからなんだかんだで5年経つ。5年、あっという間に過ぎていた。彼を沼ったレベルで好きになったのはちょうど3年半前(少しだけ正確にいうと3年と250日くらい)だから好きになった歴自体は全然新参者ではあるのだけど、彼にはある種1人で心を支えてもらい続けているが故に、彼の存在が危うくなることに対しての苦しみと絶望感は本当に言葉では言い表せない恐怖を覚える。

想像する状況を書くとすれば、ペットを飼っている人であれば愛しているペットでもいい。「家族が死ぬのではないか」と聞いた時の恐ろしさに似ている。彼の新しい姿がもう見えなくなったらと思うと、喪失感は計り知れない。

他ジャンルに逃げたいし、本当はオタクやめたいくらいには、sideMのこの地獄状態に対しては憤りを感じている。しかし、この生き地獄と微かに香る破滅すらも包括して推しが好きだと言える(ある種鈍感な)人間を求めているような運営のオタクの先鋭化とも言える行動は我々を試しているのかもしれない。

今こうしている我々に救いはあるのだろうか。sideMは救われるのか。未来はどう偏っているのか自分にはわからない。ただ、おそらくサービスが死ぬと自分も漏れなく物理的に死ぬことはなんとなく分かっているのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?