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優しさ、思いやり、情緒

年末に弟から言われた言葉が呪いになっていて、突き刺さったまま抜けずに1ヶ月以上の月日が経った。眠れなくなってしまった。寝方もわからない。

弟「本質的に僕たちは人の心がわからない側の人間なのだから、優しいふりをしても所詮はハリボテでしかないんだよ」

弟とコミケのアフターで食事をしていた時に言われた。痛いところをつかれた気持ちになり、同時に自分の試行錯誤を否定された感覚に陥ってしまった。別にそんな意図はないだろう。ただ、私は他者に対して思いやりの心や優しい気持ちを持ちたいと願い、言語化で使える古典や哲学書を読んで多少理解しようと努めていたものだから、虚脱感がすごくある。

優しさや思いやり、機微に対しての配慮、情緒が生まれ持った性質なら、この数年の努力は無かもしれない。これが技術の一環とか後天的な作用ならば、努力は意味があるんだろう。能力もないのに人間の皮をかぶった感情に理解のない生命体として生きているので苦しい。

私は他者がわからない。だけど他者に思いやりの心を持って、優しい言葉をかけたいと思う。だけど、表面的にカタログ形式で優しいふりをするのは無茶なのかもしれない。優しさや思いやり、配慮の行い方がわからずカタログ形式で処理することがある。「あなたは仕事ができるようになったんだね」と身内から言われるだけで、そこには私の思いやりが成熟したわけではないと痛感する。私の思いやりは思いやりではないのだろうか。思いやりというものが相手に刺さった時、すごく嬉しくなるものの、その嬉しさは多分「思いやりはこれであっていたのか」というテストの点を高くとったときの反応に近しい。その感情は本来の意味合いの優しさとは違う。苦しい。

また、思いやりの一環で建設的な励ましの言葉をかけたつもりの時に、どこか私は自分の言葉に責任を持っていなく、そして他者の立場を考えられていないと思った。言葉をかけた相手に与える影響を深くは配慮できていないと心配になる。他者からの言葉の意味を言葉のまま捉えてしまうため、言葉の意味の中にある感情を掴むことができない。

例えば、他の人間は「空気を読む」ということができるらしいが、私には空気を読むことができない。後天的な要素を駆使して空気を読むふりはしているが、本質的には空気は読んでいない。もしかしたら空気が読めると考えている人物は、私が思うよりもなにも考えていない可能性もある。

ただ、思いやりや優しさは考えがなければできない。その他者への考えは先天的なその人の性質の可能性もあるし、後天的に養われた道徳や倫理かもしれない。私は先天的には優しくない。油断すれば他者の尊厳を傷つける言動を発するばかりである。自分の言動に嫌気がさしていたし、何度も己の愚かさに後悔した。故に後天的に道徳や教養を身につけて、傷つける言葉をある程度沈めているだけにすぎない。それは先天的な人格としての思いやりではなくて、知識と理性であり、弟の指摘である「本質的には人の心がわからない」のだろうとは感じることが多い。

短気さを隠すために、自分の醜さを直すために、自分をもう少し好きになるために、教養を養っているだけだ。そうすれば世界をもっと綺麗に見れると思って。世界は教養があれば広くなるし、その世界を美しいと思いたくて学ぶことで感受性を豊かにしたかった。だけど、他人の機微も掴めない普通以下の存在には、それらは意味がないのか。わからない。

本来は短気で短慮なのだ。すぐ怒りの沸点は高くなるし、内心はどこまでも幼い。だが、言語化して思考して、ある程度処理して咀嚼する。教養があるから言語化できて、わからなくても何がわからないのか伝えるための力はある。それを医者は理性的だとか感情に振り回されないとか言ってきたが、本来の短気で幼い私は残っている。怒りの源泉は「わからない」か「理不尽への激情」のいずれかだろう。前者を潰せば短気さを減らせると思ってきたが、案外短気は奥が深いのかもしれない。

どうすればいいのだろう?まるでフリーレンの魔族のような(言葉を優位に持っていくために使うだけで、本質的には配慮がない)人間なのに、どうやって人間の心を理解すればいいのだろう?わからなくて悲しい。

だからと言ってこの葛藤を、この悩みを他人に伝えたとしてどうなる?「あなたは感受性が豊かだ」と半強制的に言わせてしまうのではないか。他人に気を遣わせるだけだろう。でも私はずっと苦しくて、8年の時を、倫理と道徳、感受性と教養に捧げた自分の精神をどう慰めればいいのかわからない。努力しても他人より劣った化け物のままなのだろうか。私はどうすれば良かったのだろう。

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