kisya

私が考える寄附について。

「寄付」と聞いて、皆さんどう思いますか?

善いこと。
と思う人もいれば、

偽善。
騙されている。
そんな余裕ない。

と思う人もいると思います。

私は、寄付を「感謝の表れ」と捉えてます。

というのも、私は一時期、罪悪感から
寄付をしていたことがありました。

そもそも、寄付というのは私にはすごく身近で
小学生になったあたりから、母に連れられて
駅前で、ユニセフだの赤い羽根だのの募金箱を持って
「ユニセフ募金にご協力ください」と声を出して立っていました。

「1円でも10円でも、分け与えることは善いこと。」

という価値観の中育ちました。

だけど
「世界には学校に行けない子がいるんだから、学校に行けるのは有難いことなのよ。」
「世界にはご飯食べられない子もいるんだから、ちゃんと残さず食べなさい」
と、言われるのが疎ましく
「私には関係ない。むしろ学校行かなくていいならそういう国に住みたい」
とすら思ってました。

高学年になり、思春期に足を突っ込み始めると
ニュースで世界の実情を知るようになったり、日本国内での虐待のニュースを目にするようになりました。
「子供は愛されて安全に育つ権利があるのに。
私だったらたくさん愛をあげるのに。」と怒りを感じたのを今でも覚えています。この時の思いが私の根本になっている気がします。

20代になり、海外に行くようになって肌で世界を体感したことが私の大きな転機になりました。

カンボジアで物乞いの子供たちを見たこと。
しかもものすごい大勢の。
お財布を出そうものなら、10人ぐらいで囲い込みもらえるまで離れません。
衝撃を受けたのと、囲まれるのが怖くて何も渡すことができませんでした。

その中で、一人の少年がいました。
上半身裸で、裸足の5歳〜6歳ぐらいの男の子。
彼は2歳にならないか?ぐらいの裸の赤ちゃんを抱っこしていました。

彼が何かを訴えながら、私に花のブレスレットを差し出してきて、
思わず手を出してしまったら、その花のブレスレットをつけてくれました。

そうすると、周りからものすごい批難の目が!!!
言葉が全くわからないのですが、これは「彼にお金を渡せ」と言っているんだろうなと思いました。その時は、他の人の目が気になって渡せなかったのですが、しばら経ってから彼を見つけ、そっとお金を渡しました。

それが22歳の時です。

帰国してから、「何か彼の現状を変えられることができないか?」
と支援の方法を探しました。

彼がどこの誰かは全くわからないけど、カンボジアという国を支援することで、彼に何か恩恵があれば・・・
私は、こんなに安全で豊かなところで暮らしているのに、
子供愛されて安全に暮らすべきなのに・・

そんな罪悪感に駆られて、毎月、お給料の中から5%の支援を始めました。

でも罪悪感から始めた寄付は、より多くの罪悪感を生んだんです。

毎月たった数千円寄付したところで、世界は何にも変わらない・・
もっと寄付したいけど、手取り12万の今の私には無理。。
と、無力感に苛まれました。
お金が無理なら、私自身の労働力を!と思い、青年海外協力隊に申し込みたかったけど、何のスキルや資格もない私はその時チャンスを掴めず
とにかく知ることが大事だ!と、時間とお金ができればバックパッカーの真似事をやっていました。

そんなことをやっていたら、ふと気づいたんです。

「私が今この清潔で安全で豊かな国にいられること自体がラッキーなんだ。
この有難い環境に感謝をしよう。感謝の気持ちを分ける意味で寄付しよう

こう気づいてから、15年。寄付を続けています。

昨年7月。
私は大きな出会いをして、途上国にまとまった額を寄付することができました。
寄付を始めた頃の私が目標にしていた額を、「今の私ならできる!」
と、夢を叶えたことでもあります。

なんで寄付したの?

と聞かれることが多かったので、自分の思いの棚卸しの意味も含めてノートに記しました^^

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