見出し画像

朗読劇に参加して

子どもの頃から朗読は好きだった。
小学生の時の音読の宿題も苦では無かったし、
母に言われて本を一冊丸々テープに録音したこともある。

ナレーターという仕事に憧れたこともある。
でも、正確なイントネーションに厳しいイメージがあって敬遠。
20代の私は、演劇の道に進んだ。
劇団を辞めてからは、もっぱらドラマセラピーやプレイバックシアターなど即興劇ばかりをやってきた。

ゆりさんの朗読WSに参加するようになったのは、
アーツベースド・ファシリテーター養成講座(通称:ファシ講)3期に参加して、講師のゆりさんを大好きになったこともあるが、
もう一人の講師である羽地さんのファシ講の修了証に添えられたコメントの影響も大きい。

「ファシリテーターとしてだけでなく、
   表現者としての自分にも、場をつくってあげなさい」
この通りの言葉ではないけれど、私が受け取ったのはそんなメッセージ。

ゆりさんの朗読WSで、平家物語や曽根崎心中などの古典を声に出して読み、そのリズム感、音の響き、描かれる情景の美しさに、しびれた。

ラボ研究生たかさんによる平家物語の回の感想↓

そして、普段は柔らかく受容的なゆりさんの演出家としての顔が見たいと思った。「ビシバシ言う」ゆりさんの演出を受けてみたい。
そうして、発表会用に受け取った作品は川上弘美作の「神様」という短編。
「わたし」が、雄の熊と川原に散歩に行く話である。

平家物語や曾根崎心中の生死のかかった緊迫感や激情に比べると、淡々としたのどかな語り口に少々拍子抜けした。しかし、いざ稽古が始まると、初見ではつるっとして見えた表面にもざらざらや凸凹があることが感じられてきた。そして、発表会までの約2か月、仲間とオンラインで練習したり、自分のパートを覚えたり、登場人物の人物像について仲間と意見交換したり、日常生活と作品世界を行き来しながら暮らす日々は愉しかった。

ゆりさんは、〈作り込み過ぎない〉ことを大切にしているように思う。
本番で完成されたもの、「結果」を観客に見せるのではなく、未熟でも何かに向かっていく過程、繰り返しではなくその瞬間に立ち現れてくるフレッシュなもの。そういえば、私の演劇の師匠も「アイスクリームは口の中で溶けていくプロセスが美味しいのであって、胃の中に収まった〈結果〉は面白くもなんともない」と言っていた。なにか通ずるものがありそうだ。

だからなのか、ゆりさんは肝心なことを本番直前のリハーサルの最後に言った。しかも、コメントだけして、その練習はしない。更に「私が言ったことは全部忘れてしまってもいい。全然違ったことになってもいい」と言う。
全くこちらをコントロールしようとしない。

さて、本番。
「神様」は15分程の作品なので、その前に〈口伝え〉と〈言葉の実験〉というプログラムを挟んだ。
〈口伝え〉では、私は母から子どもの頃に聞いた曾祖父の臨終の時の言葉を披露した。それは、一度聴いたらきっと忘れられない言葉で、なんともウィットに富んだ粋な死に方なのである。曾祖父は、まさか子孫が朗読発表会でお客さんを前に自分の話をするとは思っても見なかっただろう。きっとあの世で、照れながらも嬉しそうにしていると思う。
考えてみると、私は曾祖父について何も知らない。生前、会ったことも無ければ、どんな仕事をして、どんな性格で、どんな人生を生きたのか。聞いたことがあったとしても忘れてしまっているのに、この死に際の言葉だけが私のDNAの一部として受け継がれているのも、不思議なものだ。
仲間の語った口伝えのお話もとても心温まるものだった。口伝えというのは、その人のルーツや生きてきた時間を思わせる。話者の人間性が詰まっている。

〈言葉の実験〉というのは、ゆりさんが選んだ短い文章(今回は小6の道徳の教科書の一部)が読み手によってどう変わって聞こえるか?BGMを変えると、またどんな世界が見えてくるか?という試み。羽地さんの提案で、お客さんにも飛び入り参加してもらったのも、とても良かった。

朗読劇は、観客がいて下さってこそ成り立つもの。
当たり前だけど、改めてそう感じた。
聴いてくれる人がいるから、語れる。

演劇の場合は、相手役を見て話すことが多い。
ところが、朗読劇では、登場人物のセリフも正面を向いて語りかける。相手役の声は聞こえるし、姿も目の端で捉えてはいるが、観客の方を向いているので、演者の立つ舞台スペースで世界が完結せず、客席にもずっと作品世界が続いているように感じた。

暑い中、20分歩いて川原に着いた。熊はあえいでいる。

そして、相手役が「熊」であるので、直接見なくていいことも助かった。
私はイメージの中でずっと2.5m程の熊を想像していた。
本番が終わり、この2か月間過ごしてきた熊との時間が終わってしまったことに、寂しさを感じている。現実には、熊と会話を交わしたり、お散歩に行って一緒にお弁当を食べたりすることは無いわけだが、想像の中であっても、熊に大切におもてなしされるのは心地の良い時間だった。

台本のあるものを稽古して発表するのは、13年振りだった。
朗読劇でも、別の演出家のもとだったら、全然違った経験だったと思う。
だから、ゆりさんの朗読劇に出会えて良かった。
ゆりさんの感性が選ぶ作品と音楽で、発表できてよかった。

来年、またやりたい。(これからしばし修論の追い込みに入る)
きっと最初は「え~~これ?」と思うかもしれないけど、少しずつ愛情が湧いていくのだと思う。そして、その分だけ私の知らないところに連れていってくれるのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?