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行動と共にある瞑想 (第3話)

 完全なる神様の化身であり、世の中の師として、無限の恩寵を与えてくださるクリシュナ神を尊敬し崇拝し敬慕致します。なんの理由がなくとも私達に与えられているお恵みは、尊い至宝であるバガヴァッド・ギーターという形で授けられています。ウパニシャッドの智慧の真髄であり、偉大なる至高の永久の真理について解明してくれるブラフマンの知識です。天上の神々との経験を確実に得ることを切望し、努力する為の実質上のヨーガ・シャーストラでもあります。そして、遠くない所に存在し、真理として内在する至高の真実と、精神的に分離できない関係を築いています。一番短いウパニシャッドであるイサヴァシャ・ウパニシャッドは、たった18節で構成されており、シュリマッド・バガヴァッド・ギーターも同じ18という数字の章数で成り立っています。その短いウパニシャッドは、直接的な経験であるアパロークシャ・アヌブティ、ブラフマンを体験するブラフマ・アヌバーヴァや全てはブラフマンのみ存在するというサルヴァム・カルヴィダム・ブラフマの短い説明と共に、至高の経験という貴重な宝を与えてくれます。見たこと、聞いたこと、味わったもの、触ったもの、匂ったもの、考えたことは、今も大昔もそして今後何年にもわたっても、ブラフマンでありブラフマン以外のものには成り得ません。それだけが存在する完全に唯一無二の二重性のない、ブラフマンのみと記すエーカメヴァ・アドヴィティヤム・ブラフマ、全てはブラフマンと記すサルヴァム・カルヴィダム・ブラフマ、ブラフマンこそが真実であるというブラフマイヴァ・サッティヤムです。このウパニシャッドも、私達に行為するようにと命令しています。

行為を行うことによって、完全なる人生を送らなければならない

 イサヴァシャ・ウパニシャッドの第2節のマントラによって説明されているのは、クリシュナ神の教えであるギーターの中枢です。イサヴァシャ・ウパニシャッドは、ウパニシャッドの中でもとても重要な文献とみなされています。そして他のウパニシャッドが得られない地位を獲得しています。他のウパニシャッドは、ヴェーダの祭儀書(ブラフマナ)もしくは大部分を占める森林書(アラニャカ)の部分に属します。しかし、イサヴァシャ・ウパニシャッドは、ヴェーダの本集(サムヒタ)の部分に属すので、全ての節がマントラであるとみなされます。たまにイサヴァシャ・ウパニシャッドはマントロパニシャッドとも呼ばれます。全ウパニシャッドの中でも最も大切な10のウパニシャッドは、ダショパニシャッドと呼ばれ、その中で一番に位置するのがこのイサヴァシャ・ウパニシャッドです。ヤジュル・ヴェーダ・サムヒタの一部であり、ヴァジャサネイという部分です。そこでヴァジャサネイ・ウパニシャッドやマントロパニシャッドとも呼ばれるのです。また伝統的には、ブリハダランヤカ・ウパニシャッドの全体がイサヴァショパニシャッドの中で解説されていてるので、真実についての詳しい説明だとも言われてます。よってブリハダランヤコパニシャッドはイサヴァショパニシャッドの解説書にあたり、これはこのウパニシャッドの重要さを示しています。

 このウパニシャッドの最初の1節は、ギーターの第11章でクリシュナ神がアルジュナに授けた啓示と同等です。ヴィシュワルーパ・ダルシャナ・ヨーガにより、アルジュナは聖なる視野(ディヴィヤ・チャクシュ)を与えられ、ありとあらゆる所に神様と神様だけ、神聖さと神聖さだけを見ることになりました。

この世の中で動くものそして動かないどんなものも
神様によって内在し、普遍に在り、包囲され、包まれて、覆われている

 イサヴァシャ・ウパニシャッドの次の大切な教えである戒律(アデーシャ)は、『行為を行うことによって、完全なる人生を送らなければならない』であり、これはシュリマッド・バガヴァッド・ギーターの第18章にも書かれています。もしブリハダランヤカ・ウパニシャッドがイサヴァショパニシャッドの巨大で詳細に渡った解説書だとしたら、シュリマッド・バガヴァッド・ギーター・ギャーノパデーシャもまた、それに劣らない同等のものと言えるでしょう。

 ヴィヤーサは、究極の真実であるウパニシャッド全体の啓示を要約して、彼の書いたヴェーダンタ・スートラやブラフマ・スートラの中で簡潔な格言の形で表現したと言われており、シャンカラチャーリヤはそれらについて重要なバーシャを書きました。ナーラダとシャンディリャはバクティについての格言を書き、偉大なる聖者パタンジャリは、ヨーガ・スートラの中でアシュタンガ・ヨーガと呼ばれる8段階を通じた瞑想の科学について詳しく述べました。しかし、カルマ・ヨーガに関して詳しく解明した文献はあるでしょうか? 何人の人が森に籠って深い瞑想に没入できるでしょうか? どんな人がブラフマ・スートラ、ウパニシャッドやヴェーダンタを勉強する準備ができていて、実際に神様のことを心から愛しているでしょうか? 何も求めずに神様だけを愛している人がいるでしょうか?

「あなたの蓮の花のように美しい御足に対する、完全に動機を含まない愛を私にお授けください。どんな願いもありません。どんな欲求もありません。私の心の中には、あなただけを愛するというただ一つの情熱があるだけです。」

 バクティは、教会、モスク、シナゴーグやお寺を訪れて何か願い事をするように、世界中にある宗教の中にも存在します。人々は礼拝をすることで神様のご機嫌を取り、欲しいものが与えられ、問題が解決し、困難が取り除かれ、成功と繁栄が与えられると信じています。厳密に言うと、バクティの便宜上これらはバクティではなく、欲望を含んだ信仰心であるサカミャ・バクティです。本物のバクティは、世の中は無価値なものと知り、全ての欲望が取り除かれた純粋なる心からしか生じません。もし物事の本当の本質を解析できたとしたら、それらは、どちらかというともっと悲しみや苦痛、不安を与えるものだとわかるでしょう。

 ヴェーダンタやヨーガを学ぶこと、そして時空を超越する深い瞑想に入ることはとても難しいことです。それと同じ位、真の信仰を持つこともとても難しいことです。100万人の中でほんの一人か二人、本物のバクティを持つことができるかもしれません。プラフラダ、メーラ、ナーラダ、チャイタンニャ・マハプラブが、そのような人です。莫大な数の大多数の人々は、輪廻転生(サムサーラ)を元にしたこの世の中で、俗世に包まれた絶え間ない行為に従事しています。これが事実だとしたら、行為をしながらも、どのように放擲(ティャーガ)を確立するか、放棄(サンニャーサ)を確立するか、信仰(バクティ)を確立するか、そして常にヨーガの状態でいられるかに至る道を見つけることが必要です。そんな術はあるでしょうか? ギーターの答えは100% YESです。クリシュナ神が、ギーターの真髄である智慧をアルジュナに与えたのは、まさにこの為です。何故なら、クリシュナ神はアルジュナ本人でもあるからです。人類を象徴するアルジュナに相当するナラと、神様であるクリシュナ神を象徴するナラヤナは一人であり同一です。クリシュナ神は何度も繰り返しおっしゃっています。

「あなたは私にとって最愛である。だからこそ、あなたに全ての神秘の偉大さについて詳しく説明しよう。この至高の秘密を今まで私から教えられたものはいない。」

 ギーターはヨーガを通じて、行為の真髄について教えを説くカルマ・ミマンサなのです。

 ここで、ギーターの第18章の中心にあるメッセージを考えてみましょう。しかし、正しい答えを得て完全に理解したいのであれば、第1章に戻る必要があります。アルジュナは戦闘に向かう前に、クリシュナ神に助けを求めました。そしてクリシュナ神は、この争い、血の海、大虐殺を回避するよう、パンダヴァ族側のメッセンジャーとして、自分を卑下してまで極限の努力をしました。クリシュナ神はドワラカ国の統治者でしたが

「可能であれば、私はこの戦争が回避されることを望む」

と伝えました。しかし、クリシュナ神の願いは叶わず、戦争は運命に定められて起こりました。そして戦いが始まろうとした直前、アルジュナが戦うことを拒否したので、これがギーターの真髄を説き始めるきっかけとなりました。戦争は始まるばかりでしたが、始まる寸前になってアルジュナは戦いを拒んだのです。そこでクリシュナ神は、命令を下しました。

「戦わなければならない。これはあなたの義務である。クシャトリヤという戦士の階級に属するあなたは、王子でもあるが戦士でもある。だから、戦う義務を全うしなければならない。」

 上位カーストのブラーミンの義務は何でしょうか? そして下位カーストであるヴァイシャやシュードラの義務はそれぞれ何でしょう? クシャトリヤの義務は、武勇、勇猛、戦闘心、慈しみ(ウダーラタ)、チャリティ(ダーナ)などであると、第18章に明確に説明してあります。自分の義務を果たそうとしない、行為を起こそうとしないアルジュナに向かって、それは行為の本質や放棄の本質を理解していないからこそ生じた間違った決心であると、クリシュナ神はギーターの全編に渡り指摘し続ける必要がありました。クリシュナ神は、生きると言うこと、人間の本質、誕生と死の秘密についてアルジュナに伝える為、丁寧に説明を始められました。

「あなたは、自分が行為を行っていると思っているが、実はそうではない。至高の存在が行為を行っているのだ。現象世界で起こりうる何事も、その存在の力によって起こる。あなたは紐で操られる操り人形と同じようなものなので、その至高の存在の手によって操作されるただの道具とならなければならない。」

 クリシュナ神はこれについて、第11章でアルジュナに直接的な啓示を与えています。そしてその後の6章を通じて説明を続け、最終的に第18章で、真実の行為、本当のヨーガの本質、本来の放棄、断念、放棄(サンニャーサ)と放擲(ティャーガ)の本質について、完璧な解説をまとめられました。アルジュナは、ティャーガとサンニャーサの両方を得る為の術は、行為自体を放棄するのではなく、正しく適した態度で行為をしながらでなければ得ることはできないと完全に理解しました。

 だからこそ、第18章の一番最初にアルジュナは以下のように言っています。

「私は、行為を放棄する為に、戦わないことを選ぼうとしました。しかし、この放棄の理解は正しいものではなかったと今は分かります。そこで、本当の放棄とは何であるか教えてください。そしてティャーガとは、サンニャーサとは何であるかを教えてください。」

 このアルジュナの質問は、五大要素で成り立つこの世界(パラパンチャー)に属する私達一人一人にとってもとても重要です。私達は行為をしない訳にはいかないのと同時に、最終的に本来の自己に目覚めるという目的があることを覚えていなければなりません。その為に、全ての行為を通じて、聖なる運命を叶える努力をしなければならないのです。人生の使命は、神様を経験することを通じて解放されることです。これは矛盾しているでしょうか? 最終的にクリシュナ神は、ティャーガとサンニャーサの精髄は、行為に対する内なる精神の態度であると言います。

 サンニャーサとはなんでしょう?
 個人的な欲求による結果や、何かを得たいという貪欲さを含む全ての行為を放棄するということです。

  聖人はサンニャーサとは全ての欲望を伴う行為を放棄することだと理解している

 それでは、ティャーガはなんでしょうか?

賢者は全ての行為の結果を断念することがティャーガであると宣言している (BG 1章2節)

 ある行動から要求したり欲求したりすると、貪欲の種が生じてしまい、それが束縛の原因であるカルマ・バンダ・カーラカを作ります。このように、何かを得る為の貪欲さが含まれている行為は、束縛につながります。行為は、欲望に駆り立てられた時に人を縛ります。そのような行為が放棄されれば、あなたはすぐに自由になるでしょう。個人的な欲求によって起こされる行為さえ諦められるのであれば、他はどんな行為も好きなようにしていいのです。それがサンニャーサです。それがティャーガです。行為自体がティャーガやヴァイラーギャやサンニャーサの反対にあるのではありません。これらは、行為をどのように起こすかという態度や、行為に対してのアプローチなのです。あなたの義務を果たしながら、神様に委ね献げる為に行う行為、それが解放に向かう行為です。

 そしてこれを説明する為にクリシュナ神は仰います。

 「アルジュナよ、これから詳しく説明しよう。行為を起こすには5つの要因がある。これらがなければ、行為を起こすことはできない。」

サーンキャ哲学の中で説かれている
全ての行為を遂行する中に存在する
5つの動機を私から学びなさい (BG 18章13節)

 どのような行為にも、以下の5つの要素が含まれています。行為が要する環境は、アディスターナもしくは場。行為を実行する行為者はカルタ。行為をする為に努力することは行為自体のチェスタ。この行為を全うする為の手段は、道具であるカラナ。(私達が持つ道具だけではなく、外部の道具も含めます。)そして最後に、とクリシュナ神は仰いました。

「5つ目の要因は、プロヴィデンス。行為を管理する目に見えない存在であり、神様の御意志です。」

 場は、行為を呼び起こす直接的な状況であり、そこには行為をする行為者がいろいろな種類の努力をしつつ、行為に対しての手段や道具によって、最終的に目に見えない運命と神様の御意志が存在します。

 そしてクリシュナ神は、5つの要因の中には3つの違った性質が存在することを一つずつ挙げて下さいます。するとここでまた、第14章について説明がされます。どのような人が純粋な行為者(サトヴィック・カルタ)、激質な行為者(ラジャシック・カルタ)、もしくは暗質な行為者(タマシック・カルタ)でしょうか? 何が純粋な道具(サトヴィック・カラナ)、激質な道具(ラジャシック・カラナ)、もしくは暗質な道具(タマシック・カラナ)でしょうか? そして何が純粋な放擲(サトヴィック・ティャーガ)、激質な放擲(ラジャシック・ティャーガ)、もしくは暗質な放擲(タマシック・ティャーガ)でしょうか? 5つの要因の全ては、それぞれが3つのグナに分類されます。簡単に説明すると、現象世界(プラクリティ)の一部である人間の行為者が起こす行為なので、全ての行為はプラクリティに存在すると言えるでしょう。そこでクリシュナ神は仰います。

「アルジュナよ、この世であっても、天国であっても、3つのグナがなくなることはない。どこにいてもグナは存在するのだ。だから、サトヴィックな行為をすることを選び、サトヴィックな行為の道具となり、サトヴィックな態度で行為を行うことができれば、その人は行為を通じて自身を解放することができる。そのような人にとっては、行為が解放のヨーガとなる。」

この肉体、行為者、いろいろな感覚、多種にわたる様々な機能があり
そして鎮座している神様が5つ目と考えられる (BG 18章14節)

  肉体と話し言葉や心を使って人が起こす行為は
それが正しかろうがそうでなくとも
上の5つの要因によって起こる (BG 18章15節)

 心理的、言葉上、もしくは物質的な行為であっても、どれもがこれら5つの源となる要因によって支配されています。この要因は全ての、精神レベル、思考レベル、肉体レベルの行為の中に、ポジティブであろうとネガティブであろうと、公正で正しいものであろうと邪悪で不当なものであろうと、それそれの中に必ず存在します。

それらが根本にあることを踏まえても
理解力に欠けた人は
神様は私達から分離された代理人であるという
誤った知識を持ち合わせている為
神様を見つけることができない (BG 18章16節)

 理解が浅い人はこう考えるでしょう。

「私は行為者です。私がこれをしているのです。」

こういう人は、5つの源となる要因の合体と組み合わせによって、あらゆる行為が作り出されていて、自分は単なる傍観者なのだという事実を理解できません。これが束縛の主だった原因です。最初にアルジュナは言いました。

「どうして、私にあの人達を殺すことができましょうか。私は大きな罪を犯すことになり、そして地獄に落ちることでしょう。どうしてあなたは、私に戦うことを勧めるのですか?」

 アルジュナは、行為者としての感覚に圧倒されてしまった故、このような妄想に陥ってしまったので、クリシュナ神は教えを説かれました。

「アルジュナよ、あなたは行為者ではないのだ。この5つの源となる要因を取り除けば、どのような行為も起こり得るはずがない。そしてその中の4つはここにあっても、5つ目は神意によって起こるのだ。それは、ありとあらゆる所に偏在している神様の御意志である。」

 だからこそ、その至高の存在に全てを委ねればいいのです。神様にあなた自身を完全に任せましょう。

「あなたがしたいように私をお使いください。神様! 至高の力よ! 私をご利用ください。私はあなたの道具の一つになりたいのです。」

 一度このように思えるようになれば、どのような行為を行ったとしても、何もあなたを束縛することはないでしょう。行為の最中であっても、あなたは回転する車輪の軸のように、完全に静止した状態(ニシュクリヤ)となれます。車輪が高速で回り続けてもその中心は完全に制止しているように、巨大な台風であっても中心には穏やかな目が存在するのと同じです。

利己的な概念なく、良くも悪くも知性が汚れていない人は
どんな行為をしても、それらに束縛されることはない (BG 18章17節)

 エゴを伴った概念から自由になり、良いことによっても悪いことによっても知性は影響されないと理解する人は、何人もの人を殺めようとも本当に殺すことはできず、その行為によって束縛されることもありません。

 現象世界(プラクリティ)は常に変容しています。そして5つの要因が組み合わさり、あらゆる行為が起こります。これをしっかりと明確に理解できていれば、どのような行為もあなたに影響を与えることはありません。

 それぞれの行為の中に、あなたが見る局面によってたくさんの要素が存在します。そこには、それを知る人、知られるもの、そしてそれを知るプロセスが存在します。

知識、その知識として知られる源、そしてそれを知る人が
行為に三重の衝動を形作ります
器官、行動、そして原動力が行動の三重の基盤です (BG 18章18節)

  知識、行為、そして行為者は、
サーンキャ哲学の中で説かれている
3種の特質であるグナの科学と宣言できるでしょう
これらも正しく理解されなければなりません (BG 18章19節)

自己を含め、分け隔てない全ての中に不滅の真実を見出せる人は
サトヴィックと呼ばれる純粋な知識を持ち合わせている (BG 18章20節)

 多様性の中にも唯一無二のものが存在し、それが内なる真実だという知識は純質(サトヴィック)です。外見だけの相違点や多様性の中にある一つの特別な存在を見出せる人は、至高の真実を崇拝するように行動を起こすことができ、行為そのものが礼拝となります。行為が解放への術となります。そうすると行為が最高のヨーガとなり、これ以上得られるものがない境地に到達するマハーヨーガとなります。しかし、多様多種の名前や形あるものをそれぞれ違う物として捉えたり、執着したり受け入れられなかったりすると、それは激質(ラジャシック)な行為となります。好き(ラーガ)嫌い(ドヴェーシャ)という感情に歪められた行為は、束縛の原因となります。そして欲望に刺激された行為は暗質(タマシック)です。全てに偏在している真実への覚醒 、行為の中やそれを通じて顕現している普遍の真実という意識は、粗大でタマシックな理解力の人は持ち合わせていません。宇宙的な存在に気付いていない人は、好き嫌いや愛や憎しみといった個人的な関係と自分を結び付けてしまいます。「私は自分の友達、私の親戚、もしくは私の敵と関係している」という知識は、タマシックです。

 しかし、執着や嫌悪感を伴わず、行為の結果や期待を求めずに義務として行われる行為は、サトヴィックな行為として知られ、ヨーガ的な行為と言われます。

 行為の結果を期待したり、自分が行為者であるという感覚を持っていたり、多大な努力をもって行われた行為は、ラジャシックであり、あなたを束縛することになるでしょう。

欲望を満たす為や利己主義を貫く為に過剰な努力を伴う行為は
激質(ラジャシック)と呼ばれる (BG 18章24節)

  結果やそれによって引き起こされる損害、自分の能力を考慮せず
妄想から企てられた行為はタマシックと呼ばれる (BG 18章25節)

 全ての考慮を無視して、自己の欲求を満たす為もしくは感覚を満足させる為に、妄想を基礎として起こされた行為はタマシックな行為です。

 ここまで、3つのカルタに続き、サトヴィック、ラジャシック、タマシックという3種類の原動力(グナ)の説明がされました。

「何事も、自己に内在する神様のお力によってなされました。神様は自己の内奥に在られる当事者であり、究極の行為の機因です。私は単なる道具であり、神様がこの行為を起こす為に私を使っていらっしゃいます。」

と、カルタを理解した人は言います。それがどんなに難しかろうとも、神様の御意思の為に自己を放棄し、神様の目的を貫く為に行為を起こします。そのような人はサトヴィックな行為者です。

 しかし、情熱的に行為の結果を欲しがり、我欲を求める人はラジャシックです。強欲があると、正悪や純粋か不純かなど識別する感覚が全て消え失せてしまいます。

情熱的で行為の結果を求めることを願い
貪欲さ、残酷さ、不純性、喜びや悲しみで動かされる行為者は
激質(ラジャシック)と呼ばれます ( BG 18章27節)

 何故なら、貪欲に駆り立てられ行為の結果を楽しみたいと願う人は、他人に一切関与させず、障害を取り除く為ならどんなことでもする覚悟があります。これは、欲望に関して他でも記述してきた連鎖によります。楽しみの対象としてある物について考えると、その対象物に対して欲望が生まれ、欲望が生じると同時に、その欲望を満たす為に行為を起こすという連鎖が始まります。欲した対象物を得る為に行為をしている時、誰かが邪魔をしようとすれば自然と怒りが生じるでしょう。ですから怒りは、色欲や欲望から直接的に顕現します。そして怒りに満ちた人は、完全にバランスを失い、それまでに学んだことの全てを忘れてしまいます。怒りによって心は雲に覆われ、全ての過去の経験は忘れ去られ、記憶も完全に失い、知性の働きも停止します。ラーヴァナが良い例です。ラーヴァナはカースト制度で一番位の高いブラーミンでした。彼は聖典であるサーマヴェーダを常に詠唱していて、修行を遂行する偉大で素晴らしいシヴァ神の信者でした。それにも関わらず、欲望や熱情に圧倒され、自我意識(アハムカーラ)にも克服されてしまった為、完全なる知性もそれまでの苦行(タパッシャ)も全く役に立たず、彼は全てを失うことになってしまったのです。

 タマシックな行為者については下記に記述します。

不安定で、下品で、強情で、ごまかしや悪意があり
怠惰で、落胆し、ぐずぐずしている人は
暗質(タマシック)な行為者です (BG 18章28節)

 このようにクリシュナ神は、行為の構造を構成するそれぞれの要因について、アルジュナの為に解説されます。

「アルジュナよ、あなた自身は何もしていない、どんな行為もしていないということを完璧に理解できただろうか? 全ての行為は、5つの要因を伴った自然現象(プラクリティ)によって生じているだけなのだ。その中の4つはプラクリティの範囲で起こるが、1つはプラクリティを超越しており、神様への憧れ(ダイヴィ・イッチャ)と呼ばれている。あなたが行為をしない決意をしたとしても、それはなんの意味も持たない。何故なら、あなた自身もプラクリティでできているからだ。プラクリティは3つのグナでできている。活動はプラクリティの特質である。至高のブラフマンは、不行為であるニシュクリヤだ。何故なら、行為そのものであるクリヤは、至る所に偏在している存在には無縁だからだ。」

 「例えあなたが望んだとしても望まなかったとしても、プラクリティがあなたを通じて行為を起こすので、あなたは行為に従事せざるを得ない。不本意であったり、嫌々ながらであったり、やる気がなく行為をした場合は、その態度によって縛られることになってしまう。しかし、全ての行為は目に見えない存在とプラクリティによって起こると知り、その偉大なる力に最大限の信仰心を持って自己を委ねることができれば、あなたはプラクリティと協力し、行為の束縛する力から解放されるであろう。」

 そしてこの教えが最高潮に達するとクリシュナ神は仰います。

「私がそのプラクリティを超越した偉大なる力の中の力である。だから、私に身を委ねなさい。」

アルジュナよ、よく聞け
至高の神様は、全ての存在の中にその源として内在し
機械が電力によって動くように
全ての存在に活力を与えている (BG 18章61節)

 全人類に行為をさせるのは至高の存在であり、それぞれの人のハートの中に内在しており、あなた自身は何者でもない。あなたは、自分の内または自己を通じて働いている、この聖なる存在の御意思によってぐるぐると動いているだけだ。絶対神であるイーシュワラとは、内心、言葉そして肉体の中で生じる全ての活動と行為の創造者なのだ。そして今、あなたが何をすべきかを伝えよう。

アルジュナよ
あなたの存在全てを救済してもらえるよう神様に向かっていけ
神様の素晴らしい御加護によって
究極の平安と永遠なる安住の地を得ることができるだろう (BG 18章62節)

 あなたの存在の全てを神様に委ねなさい。そうすれば、煩雑な日々の活動の中でも平静を保つことができるだろう。もし神様に身を委ねることができれば安らぎを得ることができ、その行為によって最終的には至高の状態に辿り着き、舞い戻ってくることはなくなる。このように私は、至高の知識をあなたに伝た。

秘密の中でも極秘である智慧が
私クリシュナからあなたに伝授された
これを完全に反映することができれば
あなたは賢者のように行動することができる (BG 18章63節)

 このことを十分にそして完全に理解し完璧に考慮したら、そこから何をするかはあなたの好きにすればいい。

 アルジュナは今、全ての行為は神様によって管理されていて、プラクリティの活力によってのみ起こっているのだと明確に理解しました。

「私はどこにもいません。私は利用されるだけの、ただの道具に過ぎないのです。だから、進んでそして喜んで、この威厳ある過程に身を委ねることによって協力し、私の自我意識であるエゴが障害とならないようにします。一度これができれば、私の至高の幸福は安泰となります。クリシュナ神がそれを保証して下さいました。神様の恩寵によって、私の妄想は消え失せました。私は、あなたの命令に従う用意ができています。」

ここで彼は

「戦う為に立ち上がります」

とは言いませんでした。アルジュナの中に、戦うことや人を殺すことの概念はもうなくなっていたのです。彼の気付きは、

「ここで私がするべきことは、聖なる命令に従うことだけです。私は義務を果たすだけであり、どんなことであっても神様の御意志が私を通じて顕現しているだけなのです。」

でした。そこで彼は言いました。

あなたからの恩寵によって
私は素晴らしい智慧を記憶から取り戻すことができ
全ての間違った想念を断ち切ることができました
全ての疑問は解消されあなたの御言葉に沿って生きていきます (BG 18章73節)

 クリシュナ神のお恵みによって私は智慧を授かり、私の中の全ての妄想が破壊されました。全ての疑問も明白となり、私はあなたの御言葉のままに行動をしていきます。

 このような態度で行為がなされたら、至る所に偏在する聖なる存在に礼拝を捧げるようになり、行為をしていても放棄者(サンニャーサ)になれます。そして、強欲や貪欲による個人的な利益への欲求がなくなれば、それは放擲(ティャーガ)になります。ティャーガとサンニャーサは、真の行為の本質です。これはヨーガであり、礼拝です。これはカルマ・ミマンサであり、シュリマッド・バガヴァッド・ギーターの第18章で詳しく解説されています。そして主な論題はイサヴァシャ・ウパニシャッドの最初の2節で提示されていて、シュリマッド・バガヴァッド・ギーターの第18章に書かれている妄想、エゴ、個人的な欲望、どんな執着からも解放された精神で行動を起こすことで実現します。私達は存在を止め、神様に全てを委ねて私達を通じて行為を起こしてもらうようにすると、人生は永久の献身、崇拝、そしてヨーガへと変容していきます。これが行為の中の瞑想と呼ばれるものです。

 シュリマッド・バガヴァッド・ギーターの第18章を基盤とした考えを共有することによって、イサヴァシャ・ウパニシャッドの最初の2節に戻っていきます。そして、修行者であるサダカ、智慧を持ち合わせたジッギャースや、神様の信者であるバガヴァタ・バクタと交流することは、普通の幸運ではなく至高の至福(パラマ・ソウバッギャ)であるとわかることでしょう。私に究極の至福を与えてくださった慈悲深い至高の神様に感謝をし、聖なる存在である皆様が忍耐強く聞いてくださったことに感謝をします。この知識を学ぶ機会であった尊い3日間を神様の御足に両手で花を捧げて終わりにします。神様の恩寵、グルからのお恵み、そして全ての聖人の祝福が皆様に降り注ぎますように。そして、精神的なゴールだけでなく現生のゴールへの努力も成功に導かれますように。

 神様のご加護あれ。

 Hari Om Tat Sat

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