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行動と共にある瞑想 (第2話)

 神聖なる智慧の真髄が詰まったギーターの教えを通じて、人類に神様からの恩寵や祝福を与えてくださった、絶対神の完全なる生まれ変わりであるクリシュナ神をお慕い礼拝致します。ギーターには18章700節にわたり、真実を実現する為の実用的な方法が明記されています。修練の必要性、人生の生き方、行動の起こし方など、究極の真実に到達する為の術が記載されているので、これはヨーガの経典であり聖典でもあります。ギーターの中で詳しく説明されている生き方は、強烈にそして効果的に私達を偉大な真実へと導いてくれます。これは、至高の真理であるブラフマンに関する知識であり、ウパニシャッドであり、ヨーガ·シャーストラであり、光り輝く栄光の中にいらっしゃる神様がご本人の言葉で詳しく説明してくれています。クリシュナ神は、16の神聖なる力(ショーダシャ·カーラ·ユクタ)を持ち合わせており、究極の絶対神(パラブラフマン)完全なる生まれ変わり(プールナ·アヴァターラ)だと言われています。神聖さを最大限に具現化された神様が、教えを説いてくれているのです。クリシュナ神は、至高の真実の本質と、その超自然体験を達成する方法、その達成の為にどのような生き方すべきななどを詳細に渡って述べられています。あなたの生活を浄化し、全ての行為を神聖なるものと繋がる過程に変えていくことは、あなたの源であり存在の起源との関係を継続的に保つ為の準備です。そうすると人生は、行為が束縛を生じさせ神様に到達する障害になるものから、神様の方向を向き導いてくれるものになります。行為の全てが、神様を実現する為の道程にある一切の障害物を取り除いてくれる力を得ます。人生が神聖なるものに変化し、行為がヨーガへと転換します。ここでいうヨーガとは何でしょうか? ヨーガとは、あなたを神様と結びつけるあらゆるものであり、常にあなたを神様の方向へ向かせてくれる手助けとなるものです。

 サジャナ·カサイという肉屋を営んでいる人がいました。しかし、彼はこの職業を問題視することなく、ヨーガの一貫として行っていました。例えば、妻が誠実に夫のお世話をする時、それは俗世の行為ではなくなりヨーガとなります。妻が夫の中に神聖なる存在を見られるようになると、家事全般は目の前にいる人として現れた神様への崇拝となり、その中に究極の真実を見ることができるようになるでしょう。

 弟子からグルに対して愛のこもった誠実な奉仕は、世俗的なレベルのものではありません。完全なるヨーガに変容されます。弟子は、グルの中にただの人を見ているのではなく、グルの中にそしてグルを通じて神様が顕現していることを見ています。ですからグルに対しての奉仕(グル·セヴァ)は、神様への崇拝、すなわちバガヴァット·アラダナとなります。

 ヴェーダンタの主な教えである唯一元論(ケーヴァラ·アドヴァイタ·ヴェーダンタ·シッダンタ)を詳しく解説された偉大なるシャンカラチャーリヤは、現象世界の全体は、心というキャンバスに一時的に現れたようなものだと言いました。それだけでは存在し得ない欲望や選択(サンカルパ·ヴィカルパ)と同じように、世界は夢と同様に実在しないのです。しかし同時に、シャンカラチャーリヤ始め他の聖者達は、行為(カルマ)が人類を束縛する主な理由であると言い、それを避けられないのであれば、カルマを神様を悟る為の工程に変換する方法を見つけなければならないとも言いました。そして彼は、シヴァ神の栄光を讃える賛美歌の中で、とても有名なスローカを与えて下さいました。

  「私がどんな行為をしようとも、神様を崇拝するように全てを捧げます」

 同じくジャガット·グル·アーディ·シャンカラチャーリヤは、

「人として存在している限り、自然現象(プラクリティ)から生まれ、暗質(タマス)と激質(ラジャス)を含むを含む3つの動因であるグナを持っている為、行為(カルマ)から逃れることはできません」

と言いました。もし、悟り(モクシャ)に向けて成長していきたいのであれば、行為をその目的に向けての修練(モクシャ·サダナ)になるよう変換していく芸術と科学を見つけなければなりません。そしてこれはまさに、シュリマッド·バガヴァッド·ギーターの18章に渡って詳しく説明されていることです。行為の最中に、その行為をどのように解放への術へと変換することができるでしょうか? 17章の中で、サンニャーサについての説明が2回もアルジュナに与えられました。第4章では、ギャーナ·カルマ·サンニャーサの説明が、第5章では、カルマ·サンニャーサ·ヨーガの説明があります。先の2章でサンニャーサについて説明されているのに、どうしてクリシュナ神は最後の章でまた同じサンニャーサとモクシャ·サンニャーサ·ヨーガというテーマを取り上げたのでしょうか?

 真実(サッティヤ)、古典(サナタナ)ヴェーダの知識(ヴァイディカ)、義務(ダルマ)として存在する全ての聖典や経典の中心的な目的は、個々の魂(ジヴァアートマ)に解放の術を説くことです。グランタ、ヴェーダ、ウパニシャッド、ブラフマ·スートラ、バガヴァッド·ギーター、マハーバーラタ、ラーマヤナ、18種のプラーナ、そしてそれ以外にも、歴史と共に記述されてきた文献には、唯一の目的が明示されています。この世の中で、幻影であるマーヤの罠にどのようにはまってしまったか、そして人生を通じてそれからどのように解放されるかということです。それはこの上ない喜びであり、人類だけが成就し得る人生の目的なのです。

 第18章を勉強していく上で、サンニャーサという言葉をきちんと理解していなければなりません。これは、ヒンドゥー教で言われる人生の区切りである4段階の人生期(アシュラマ)の4段階目にくるサンニャーサとは異なります。人生は、学生期(ブラフマチャーリア·アシュラマ)、家住期(グリハスタ·アシュラマ)、林住期(ヴァーナプラスタ·アシュラマ)で義務と責任を果たした後、4段階目にサンニャーサの段階を迎えて人生の終盤に向かいます。この段階に辿り着くということは、すでにある程度の年齢に達しています。ヤッギャヴァルキャという聖人と二人の妻、カティャヤニとマイトレイのエピソードがあります。ヤッギャヴァルキャは、家住者でした。そしてブラフマンの知識を持ち合わせており、ウパニシャドやヴェーダの知恵に抜きん出ていました。しかし彼は、牛や土地、使用人や貴金属といったたくさんの富を所有した家住者だったのです。そしてある時考えました。

「私は自分の人生を満喫しました。人生で楽しむべきこと全てを経験し楽しみました。そして今、私はサンニャーサ·アシュラマに進まなければなりません。森に行き、そこでは自分の胸の内や心と知性を究極の真理であるブラフマンに捧げることが唯一の義務となります。私はその真理と一体にならなければならないのです。」

サンニャーサの任務は、自己を見つめて満たされ(アートマ·チンタナ)、究極の真理であるブラフマンのことを熟考(ブラフマ·チンタナ)する以外ありません。彼には3つのこと、施し(ビクシャ)、清浄(サウチャ)、そしてブラフマンの知識だけが必要です。この肉体を持っている限り、空腹は避けられないので施しを受けます。何かを食べれば排泄が起こるので、清潔さを保つ必要があります。そして、ブラフマンの知識と共にあることで、昼も夜も至高の真理についての思考に満たされていくのです。

 アルジュナは若く、王国の王子であると共に勇敢な戦士でした。そのアルジュナに対して、どうしてクリシュナ神はサンニャーサについて語り始めたのでしょう? クリシュナ神が語ったのは、人生における行動を神様に近付ける工程として変容させる為に、邪魔しているものを放棄するべきということでした。人である以上、行為は回避することができません。行為を解放へのきっかけとする秘密を知らない限り、全ての行為によって束縛されてしまいます。行為をヨーガに変え、解放への道筋とする原理がサンニャーサなのです。ここでのサンニャーサは、放棄や拒否を意味します。通常、日常生活を送っている中では、人生や行動の本質をじっくり考えたりすることはないでしょう。そのように識別することなく行う行為は、束縛の原因となってしまいます。最初、アルジュナは行為自体を拒否しました。完全に武装して戦車に乗り込んだのに、戦場の真ん中で戦闘への関わりを拒否したのです。そしてもう戦いが始まるというと言う時になって

「戦うことはできない。私は戦えない。」

と言ったのです。アルジュナの中に、戦争とは罪であり、その罪深いことに自分は関わり合いたくないという考えが浮かんだのです。これは『私が行為をする』という意味のカルトルトヴァ·アビマーナそのもの、自分が行為の実行者であるという考えでした。至る所に普遍に広がる偉大なる力があり、その存在無しには枯葉の一枚も動くことはないという洞察力に欠けていました。神様が内なる力となり行為させるように突き動かさなければ、人は何にもなれません。『私が行為をする』という考えと共に行為をすると、その行為は束縛の原因となります。何故なら、人としての自我意識から生じる思考や欲望によって引き起こされているからです。サンカルパを断念すること、サンカルパを放棄することは、行為からあなたを束縛する力を取り除きます。『私が行為をする』カルトルトヴァ·アビマーナは束縛の1つの理由であり、もう一つの動因は、全ての人は欲望に駆られて行為を起こすという事です。『この行為によって、何かを得よう。この経験を楽しみたい』というように、欲望が行為の原動力になります。行為の結果を求める心(パラーカンクシャ)がある限り、行為は束縛の原因となります。普通の人が何か行動を起こす時は、「私がこの行為をしている」という考えと、何かを得たいという欲求があるので、その行為によって束縛されてしまいます。そこには、神様だけが実行者であり神様以外には誰もいないという正しい理解力が欠けています。神様のお力によってこの世は動いています。太陽、月、星、宇宙、海などの原動力となっているのは、神様の偉大なる御意思です。神様の御意思は一面に広がり、世の中のあらゆることを支配していて、私達は何者でもないのです。これが分かれば、神様の御意思を完全に信頼することができ『私は全てを神様に委ねます。あなたのお望みのように私をお使いください。あなたがおっしゃる通りに、私はあなたの御意志を行為として表します。』と宣言することができるでしょう。

 大切な啓示が書かれた第11章、全世界を見渡す力を説く章の最後で、クリシュナ神はアルジュナに向かって問います。

「これが見えるか? ならば戦えるか? 敵を倒すことができるか? 戦闘に立ち向かえるか? まだ見えていないのか? 全ては起こるべくして起こるのだ。何故なら全ての起因は私だからだ。あなたは、私の手の内にある道具として存在するだけであり、あなたがこの世でしなればならないことは何一つないということに気付きなさい。外界の礼節を果たす為に、私はあなたを道具として使っているだけだ。」

 あなたはただの便利な道具にすぎない (BG 11章33節)

 この言葉により、クリシュナ神は行為の最中であっても不活動でいる秘密をアルジュナに明らかにされました。行為(カルマ)の中にも不活動(アカルマ)が存在し得ます。そしてこのような不行為が、最終的に個々を解放に導いてくれるのです。ですからこの章には、モクシャ·サンニャーサ·ヨーガという適した題名が付いています。そしてこの章では、ティャーガは放擲という意味で使われています。神様に到達する為に、あなたの前に障害として立ちはだかるものを拒否しなさい。ギーターの何章にも渡り、この放擲の本質について、何度も繰り返し説明されています。簡単にまとめるならば、行為の結果として何かを得たいという欲望を放棄しなければならないということです。

 あなたの義務はただ行為をすることだけで
 決してその行為の結果を求めてはいけない (BG 2章47節)

 人生という闘争の中では、臆病になっていられません。美しくなっている暇もないでしょう。強靭さだけが唯一必要な力であり、最初の放棄すべきは以下です。

 心の中の醜い弱さを断ち切り、敵が恐る人となれ (BG 2章3節)

 虚弱さを手放し、自信を持たなければいけません。

「私は神様の子です。私は、人間関係や友人関係がないと一人ぼっちかもしれませんが、実際は神様が常に私と一緒にいて下さっています。神様は永遠の伴侶であり、全てのことに打ち勝つ勇気を与えて下さいます。」

この信頼があれば、内に漲る強さを感じることができるでしょう。

 ありとあらゆる形の弱さを手放し放棄し、人生に勇敢に立ち向かっていかなければいけません。クリシュナ神は

「神聖なことは、全て受け入れなさい。神聖さがないものは、全て放棄しなさい」

と仰り、人類の3つの敵を選び出されされました。これは後年シャンカラチャーリヤが誰にも真似のできない文体でヴァイラーギャ·ディンディマという本の中に同じ事を書かれました。

 あなたの中には3人の強盗がいて、知恵という素晴らしい宝石を略奪しようと狙っています。彼らとは、現世的な熱情もしくは不純な欲望が生まれることによって、必然的結果として表れる怒り。そして怒りが発した所に必ず生まれる現世的な強欲。そして、その二つが常に一緒に働くことによって引き起こされる貪欲であり、これらはあなたの心を石のように固く閉ざしてしまいます。思いやりや同情、親切心は正しい生き方(ダルマ)の根源であり基盤です。仏教とジャイナ教は、この慈しみ(ダヤ)に関しての素晴らしい徳を説いています。利己心と貪欲さも、あなたの心を石にしてしまうでしょう。シャンカラチャーリヤは、

「これらは恐ろしい3つの敵です。しっかりと用心していなさい。常に注意を怠らないように!」

と言いました。

  そしてクリシュナ神は仰います。

 その3つは地獄へと導く、自己を破壊する敵です
 強欲、怒り、貪欲を放棄しなさい (BG 16章21節)

 肉欲、激怒、貪りの3つは、自己を破壊する地獄への扉となり得るので、人はそれらを断念し葬り去らなければならないと教えて下さいます。

 ここで何を放棄しなければならないか、本当のティャーガとは何かを説明されます。それはお金、家、車などの財産や妻や子供、もしくは自分の仕事などを手放すことではありません。不純な欲望や無知な情欲、怒りを手放さなければ、貪欲さや強欲を手放さなければ、その放棄は本当の放棄とは言えません。ギーターの第14章と第16章の中で、クリシュナ神は本当の放棄についてヒントを与えて下さっています。本当の放棄とは、外側で起こす行為ではなく、内側での行為です。グナ·トラヤ·ヴィバガ·ヨーガの文献の中で詳しく説明していますが、

「神様に到達するという究極の目的を達成する為には、純粋な性質(サットヴァ·グナ)を増加させていかなければなりません。そしてこの過程の中で、暗質(タマシック)とそれに結びついた激質(ラジャシック)の要素の全てを手放さなければなりません。」

ラジャスもサットヴァと結びついている時は、解放への過程で役立つ場合があります。

 そして第16章には、悪魔的な要素の全てを放棄しなさいと書かれています。神聖さに欠けるものに関しては、全て完全に放棄しなければなりません。放擲(ティャーガ)は、ギーターの教えの中に何度も繰り返し出てくる主題です。そして、様々な行為の真っ只中にいる人に対して、放棄(サンニャーサ)が説教され詳細に説明されました。グルであるクリシュナ神が、今まさに戦いが始まろうと戦隊が睨み合っている戦場の真ん中で、完全に武装をした王子にサンニャーサとティャーガについて教えを説いている場面を想像してみてください!

 そこにはどんな意味があるでしょうか? ティャーガとサンニャーサは、絶対に避けられないものです。サンニャーシ、ヨーギやババジだけにではなく、ティャーガとサンニャーサは、この世の全ての動的行為をしている人に避けられない確実に必要な要素なのです。解放を望みながら人生を送りたいと願う人には、神意によってその必要な要素が与えられるでしょう。もし真のヒンドゥー教徒であれば、古代からの真実に基づいた厳格な徳(サッチャ·サナタナ·ダルマ)に従うことで、人生が解放へと導かれていくことでしょう。そうなることで、ヒンドゥー教の本質を理解したことになります。ヒンドゥー教の偉大なる喚起は、

「一歩を踏み出しなさい! ヨーギになり、解放を目指しなさい!」

です。古代からの真理の教えを信じる者は、解放より先を求める人(ムムクシュ)となるべきです。解放は智慧から生じるので、叡智のある人(ジッギャース)でもあります。その知識は、神様への厚い信仰(シュラッダ)の中から始まります。このような人には、神様の恩寵として解放への智慧が与えられ、信仰厚い帰依した人(シュラッダ·バクタ)となります。

 最初の章でアルジュナは

「私は全てを放棄し、物乞いになります。親戚や血族を斬り殺し虐殺するような血の海を避けられないのであれば、この王国でさえも要りません。」

と言いました。そこからクリシュナ神は、16章に渡って教えを説き始められたのです。

「もっと物事を良く見なさい。良く考えなさい。あなたは執着、快楽(モハ)、執着(アサクティ)、自己欲(ママタ)に打ちのめされているだけだ。あなたの知識(ブッディ)には識別力(ヴィヴェイカ)が備わっていない。強烈な感情に完全に支配されてしまっている。落ち着きなさい。例えあなたが誰も殺さず、この行為を起こさなかったとしても、彼等が永遠に生きられるとでも思っているのか? あなたが殺さなければ、彼等は死なないとでも思うのか?」

   生まれ出た者には死が訪れ、死んだ者には生が約束されている (BG 2章27節)

 「これは避けられない事実なのだ。賢者は、必然的な事柄について悲しんだりはしない。目を覚ましなさい! これから私が偉大な真実である実在について、詳しく説明をしよう。」

クリシュナ神は、忍耐強い忠告や啓示を通じて、アルジュナの全ての質問にお答え下さり、全ての疑問を晴らして下さいました。クリシュナ神が、第17章のシュラッダ·トラヤ·ヴィバーガ·ヨーガを詳しく説明された後、アルジュナは長い道のりを進んできたことに気付きました。

 クリシュナ神の教えが、最終的に第18章まで来ると、アルジュナは物事を本来の正しい姿で見られるようになり始めました。アルジュナの思考が、ようやく高次のレベルへと向上したのです。妄想や錯覚によって惑わされていた時には気付けなかったことを、ようやく理解できるようになったアルジュナは、

「ようやく気付きました! 放擲(ティャーガ)は何であり、放棄(サンニャーサ)は何なんであるかとの私の考えは、全く間違っていました。お願いです。もっと詳しくこれらについて教えてください」

と嘆願しました。

 放棄の本質と真実について心の奥底から知り得たいと願います
 クリシュナ神よ、放擲についても教えてください ( BG 18章1節)

そこでクリシュナ神は、すぐに核心をつきます。

 聖人達によると、サンニャーサとは
 欲望を持たずに行為をすることだとされている (BG 18章2節)

 自己利益の為の全ての欲望を手放すということは、

「私は、これが義務だと理解し行動を起こします。この行為によって、人類に与えられたヴェーダに基づく生活の一番高次な理想を叶えることができるかもしれません。」

ということです。これは、あなたがこの世に送られてきたのは、神様が創造された全てのものに対して、あなた自身が利益の源となる為です。全ての倫理や道徳は、他者に善行するという信念(パローパカーラ)に集約されます。この肉体が与えられたのは、神様の創造物に対して有益に使われる道具となる為です。このような思考と共に行為をすれば、サンニャーサを修練しているのと同じことになります。ヨーガとは、修練であり継続であるアッビヤーサを意味します。しかし、他の17章の中では、ヨーガ·シャーストラと書かれているヨーガが、アッビヤーサを意味しています。ですからこのサンニャーサとは、行為の最中に練習されるべきであり、そうすることによって、あなた自身を行為そのものから切り離してくれます。

 聖人達は、サンニャーサとは欲望を持たずに行為をすることだと理解している
 賢人達は、行為の結果を断念することがティャーガだと宣言する 
 (BG 18章2節)

 聖者達は、サンニャーサとは欲望を伴った行為の放棄だと理解しています。賢者は全ての行為の結果を期待しないことがティャーガだと断言します。

 人は言います。

「そうではなく、サンニャーサとは、全ての行為を放棄することです。それが本当のティャーガです。」

どうしてでしょう? 人の本質からして、全ての行為に欠陥が付きものです。そして全ての行為に欠点があるからこそ、それらをすると、あなたは行為の結果に縛られることになります。だから、全ての行為は断念されなければなりません。そして他の人は言います。

「禁じられた行為(ニシェーダ·カルマ)は放棄されなければならなりません。しかし、社会の中で一個人の義務として課される行為はしなければなりません。」

 哲学者の中には
 全ての行為を悪とみなし断念するべきだという人もいるが
 自己犠牲を伴ったり、他に与えたり、忍耐が必要な行為は
 放棄するべきではないという人もいる (BG 18章3節)

 ある哲学者は、いかなる行動も悪と同じように断念されなければならないと宣言します。しかし、他の哲学者は、犠牲や供儀、天のお恵みやお布施、もしくは忍耐を伴う苦行のような行為は、放棄するべきではないと言います。

 ある賢者は言います。

「行為には、欠陥が含まれているから放棄されなければなりません。そしてその行為者となると、この欠陥の参加者となってしまいます。」

しかし、他の人達は言います。

「他の人の為になる行為は、放棄すべきではありません。」

献身的な行為(ヤッギャ)は浄化のプロセスであり、精神性を高揚させます。供儀(ヤッギャ)を行うことによって、あなた自身にだけでなく、全ての生きとし生けるものにたくさんの利益がもたらされます。これと共に、神様を崇拝する、ヴェーダのマントラを唱える、慈善の行為などがあります。ですから、自己の本質を浄化する無私の行為は、断念すべきではありません。自分の持っているものを他人と分かち合うことは高尚な行為であり、あなた自身を高めてくれるので断念すべきではありません。そして難行苦行も強力な浄化行為です。私達の本質には、暗質の要素(タモ·グナ)、無限に近い程の残存印象(サムスカーラ)とネガティブな欲望(ヴァーサナ)が存在します。行為とは、それらの多様な混合物です。過去の生で、善行(シュバ·カルマ)にも悪行(アシュバ·カルマ)にも関与したことでしょう。そして、それらの行為のいくつかの結果をこの生で体験する為に、この世に生まれてきました。それらも、良き行いと悪い行いの混合です。そこから私達は、ポジティブなこともネガティブなことも体験し、それらの印象(サムスカーラ)は、表に現れず微細で捉えどころのないものとして、私達の奥深くに潜在していきます。どのようにそれらを浄化することができるでしょうか? もし衣服が汚れたら、お湯と洗剤で洗い流すことができます。もし手が汚れたら、水で洗えば済むことです。体内に汚れが貯まっていると思ったら、下剤など薬を飲むか断食をして解決できます。生命エネルギーレベル(プラーナマヤ·コーシャ)は、保息(クムバカ)によって浄化できます。しかし、肉体(ストゥーラ·シャリーラ)や精神体(スークシュマ·シャリーラ)よりもっと奥深くの精妙体(カーラナ·シャリーラ)に、潜在欲望(ヴァーサナ)や残存印象(サムスカーラ)は留まっています。どのようなパワー、エネルギー、力であれば、一番奥まった所にあるカーラナ·シャリーラまで届き、不徳な潜在欲望(アシュバ·ヴァーサナ)を浄化することができるでしょうか? そのエネルギーこそがタパッシャ、熱です。あなたの内にある魂は、ネガティブに引き下げられる力と高次に向かうポジティブな力の間で、マハーバーラタの戦いをしていると例えましょう。その2つの力は常に緊迫した状態にあるので、自分を高めるポジティブな方向へ向かう神聖で精神的なものを慎重に見極めなければいけません。あなたが神様へ向かい前進していくことに反する力を継続的に抑制する状態がタパッシャです。この高次と低次の引っ張り合いは、強かろうが弱かろうが、あなたの中に燃え立つような力を生じさせます。タパッシャという言葉は、熱という意味のターパが語源です。心的な熱があなたの中に生じると、自己の中に淀んでいる粕や屑を燃やし尽くしてくれます。タパッシャは、カーラナ·シャリーラを貫く力を備え、内在する自己を完全に浄化してくれます。そこで、

「供儀(ヤッギャ)、布施(ダーナ)、苦行(タパ)は、浄化する行為であり、絶対に放棄してはいけません。他の全てを断念したとしても、この3つは絶対に手放してはいけません。」

と人は言います。

 アルジュナよ、これらは多数の人の意見である。そこで、今から私が、何を放棄するべきかを教えよう。放棄には3つのタイプがある。

 放棄について、私の最後の教えである真実を聞け
 ティャーガとは、3種類存在する (BG 18章4節)

 犠牲(ヤッギャ)、恵味(ダーナ)、忍耐(タパ)は
 放棄すべきではなく、むしろ行動を起こしていけ
 自己犠牲、奉仕、苦行は、賢い人をさらに浄化してくれる (BG 18章5節)

 ヤッギャ、ダーナ、タパは放棄すべきではない。これらは人間の本質を浄化する術だからだ。

 神様に到達する過程において、これらはあなたを支える友となります。そして思い出して見ましょう。クリシュナ神は、完全に武装し戦闘の準備を整え、戦場の中央にいる戦士に向かってこれを仰ったのです。これが何を意味するかと言うと、これは全ての人へ向けた神様からのメッセージだと言うことです。もし、心の底から知識を追求するジッギャースや悟りを求めるムムクシュスになりたければ、ヤッギャ、ダーナ、タパを日常の生活に取り込まなければなりません。

 しかし、ヤッギャ、ダーナ、タパを実行する際にも、それらに執着するべきではません。クリシュナ神はこのことについて、以下の様に注意を勧告します。

 しかし、それらの行為においても執着はするべきではなく
 行為の結果を求めてはいけない
 アルジュナよ、これは私の口からはっきりと宣言する (BG 18章6節)

 行為を実践する時、

「これは私の義務である。いかなる状況においても、これは成し遂げなければならない行為(カルタヴャ·カルマ)である。全ての欲望と行動への見返りを放棄した心で行わなければならない。」

  義務である行為を放棄するのは正しくない
 間違った判断により義務的行為を放棄するのは、暗質である (BG 18章7節)

 その人の任務である行為を放棄することは正しくありません。例え、あなたが学生期(ブラフマチャーリア·アシュラマ)、家住期(グリハスタ·アシュラマ)、もしくは林棲期(ヴァーナプラスタ·アシュラマ)のどこに当てはまろうとも、それぞれのアシュラマに独自の義務(ダルマ)が存在します。もしいずれかの人生期の最中に、楽しみをもたらすことではない為、怠惰になったり力を出し惜しんだりして、成し遂げなければならない行為や正しい行動をしなかったとしたら、それはティャーガができていないうことです。ほとんどの人は道楽者です。快適さを求め、努力を嫌います。もしその行為に痛みが伴うとしたら、しないほうがマシだと考えます。安楽さや利便性を失いたくはないと願います。

 肉体的な痛みを伴うからという恐れから行為を断念する人は
 動的(ラジャシック)な放棄をしているだけで
 そこから何の利益も得ない (BG 18章8節)

 行為そのものが不快であったり痛みを伴ったりすることから、その行為を放棄したいと思っている人には、放棄の結果である利益は生まれません。そして、行為によって努力や不快さが生じるのではないかという恐れからその行為を放棄したとすると、見方によっては放棄者とみなされるかもしれませんが、行為の放棄からの利益を得ることはできません。

 なんであれ、それがやらねばならぬ行為と知り義務行為をする人は
 執着を持たず結果を求めることもしないので
 純質(サトヴィック)な放棄をしているとみなされる (BG 18章9節)

 最も高い質を伴った本当のティャーガは、私達の義務である行為の中に存在します。

「私は行為に従事します。何故なら、それは私の義務だからです。そして何の見返りも求めず、自分の任務を果たすことに満足を得ます。徳の実践そのものが報酬であるという、高尚な観念を元に義務を果たせば、私はそれで十分と感じます。誰かから認められたり、感謝されたりする必要はありません。神様がお見守り下さる中で、自分の義務を果たすことができたということだけで十分です。」

 何かを得ようという欲望なく行動を起こせば、その人は本当の放棄者と言えるでしょう。行為をしていようとも、ティャーギであり難行苦行をするタパシュヴィとなります。行動をしながらも、ティャーガの状態でいられます。

 放棄をする人は、純粋さや知性に満たされ、迷いは断ち切られている
 不愉快な行為に嫌悪も抱かず、快い行為に愛着を持つこともない 
 (BG 18章10節)

 放棄した人は、清浄さと智慧によって満たされ、あらゆる疑念はばらばらに砕けて消滅し、気の進まない仕事を嫌悪することなく、気に入ったものに執着することもありません。

 するとどんな疑いも生じず、正しいティャーガを行えます。そのように行為をしていくと、知性が浄化され、全ての疑問が解消されます。不愉快な行為を嫌うことなく、楽しい行為に執着することもありません。このように内なる平静が訪れると、不快な行為に尻込みすることなく、興味を引くものを快適な行動へと推し進めることもなくなります。唯一の理想『これは私の義務である』という智慧と共に行動すると、行為から生じる束縛から解放されます。行為自体が解放への力となるのです。行為に『私が行っている』という考えが伴うと、その行為はあなたを束縛します。『私は、やらなければならない自分の役目を果たしている。自分の義務を実践しているだけだ』という考えで行為をすれば、どんな行為もあなたを束縛することはありません。

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