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【清明】 虹始見(にじはじめてあらわる)

時、既に穀雨。通り過ぎてしまった季節を今になって追いかけている。

京都にいると、虹を探す気持ちが高まる。それはこの土地では、雨が降っていても急に晴れたり、山の上に青空が広がったりという風景をよく目にすることから生まれる期待かもしれない。実際、この土地に訪れて何度も虹を私はみてきた。今年の三月には、自分の誕生日と、合宿の最中と、そのほかにも何度か目にしたことを覚えている。

にもかかわらず、4月に入って、一度も虹に出会えていないのだ。

この時期、ひょんなことから窓のない部屋で暮らす経験をした。なにしろ朝型が好きであり、日の暮れる時間の長い秋や冬になると気持ちが塞ぎ込みがちな私にとって、これは思いの他ダメージの大きなものだった。自然光の有無がこれほどに影響を及ぼすとは!夜型の人には、この感覚はあまりわからないかもしれない(実際それ以外のところはとても快適な空間であった)。

そんなわけで、朝起きて、外の様子がわかる窓のところまで行って、カーテンを明け空を見上げる。珍しく天気予報通りに雨が降っていることを確認し(天気予報に反して晴れることも、京都では多いように思う)、私はてくてく、南禅寺方面を目指し歩き始めた。この時期(コロナの影響が大きく)午前中のカフェはたいてい空いている。南禅寺近くのブルーボトルコーヒーは、市街地から離れた場所にあるせいか、またこの天気のせいなのか、広い空間に、客がほんの数人。片隅で長いこと居座ってしまった。

オーツミルク入りのコーヒーを注文していた途中。雲の隙間から陽がさーっとさしてきた瞬間があった。「あ!虹が見えるかもしれない」そう思い、思わず「ちょっとだけ外をみてきます」と行って、カフェが出るまでの間、ビニール傘をさし通りに出る。雨粒に濡れた緑を、朝の眩しい光が照らす。虹のかかりそうな方向を探して、私は空を見てゆっくりしっかり、遠くへと目を凝らす。遠く?いや、せまる山の風景があるので、そんなに遠くな気がしない遠い方向に。

少したったら、また太陽は隠れてしまって、虹の気配は遠のいてしまったので、諦めて店内に。すると少しするとまた、眩い日のさす時間が訪れて、その度に私はムズムズしてしまうのだった。

虹が出る時、そのことを本当に喜ぶ人に伝えられたらなあと、いつも思う。それは、私の知らない人かもしれない。同じ空の下にいて、いつもと変わらぬ日常を過ごしている人。あるいは何か落ち込んでしまうようなことがあった人。すごく嬉しいことがあった人。虹はいろいろな人の心に届くと思うけれど、それでもやっぱり、人によって、それをみた時の喜びの度合いには違いがあるなと、虹が出るたびにはしゃぐ私は周りの反応から学んでいて。

虹に出会えたことが本当に嬉しい!と思う、その瞬間の誰かに。「見て!虹が出てる!」と、出会うたびに伝えたくなるメッセージが、届けばいいなと思うのだ。

虹はいつも、存在が誰かにつながっていることを、思い起こさせてくれる。