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謹賀新年 「悦」

新年あけましておめでとうございます。
2022年の始まり。どこで、どんな時間をお過ごしでしょうか。

2021年は私にとってとても大きな転機となる一年でした。

年の始まり。
その存在を知って以来「この希望を生きてみたい」と願う衝動に導かれて歩み始めたNVC(Nonviolent Communication)の学びの道のりの選択肢のひとつ、「認定トレーナー」となることが叶いました。

「何が正しく・何が間違っているか」という捉え方で他者や自分を裁き、「ねばならない」を牽引力とする世界から、いのちの声(感情や感覚、その奥に感じとることができる生命の声)に耳を傾け、自分自身、そして他者のいのちに触れ・つながりを育み、創造的に未来を描く選択へ。そこから世界へのまなざしが広がっていく感覚・感じた希望があまりにも確かで、また、言葉というものに惹かれてやまない私にとって、NVCとの出逢いは、運命を感じざるを得ないものでした。

この年はこのNVCにまつわる活動を通じて人と出逢いなおすことも圧倒的に増えた一年でもありました。

それを象徴づけるのが、2021年12月8日に発売された『「わかりあえない」を越える - 目の前のつながりから、共に未来をつくるコミュニケーション・NVC』という翻訳本の出版です。

原著は、NVC創始者マーシャル・B・ローゼンバーグ博士による『Speak Peace in a world of conflict - What you say next will change your world』。NVCに出逢い、とにかくがむしゃらにNVCに関連する書籍を読み漁っていた頃にその存在を知り、この本に描かれた世界をいつか多くの人と共有することができたらと願い続けていた一冊 です。

その翻訳本を島根県の離島、海士町(あまちょう)に生まれた出版社・海士の風(あまのかぜ)から出版することが決まり、翻訳メンバーとしてこのプロセスに携わる機会をいただいたこと。のみならず、これを通じて、いつか出会いたかった海士町とつながりを持ったことによりもたらされた新風。そこからの流れは、社会的に評価の高い活動をしているとされる方々に対して抱く私のコンプレックスと密かに向き合うことともつながりました。どこかにこっそり潜んでいる(自分がこれに携わるにふさわしい人であると思われたい)という感覚。その小さな声に耳を傾け、自分のこころの深海に降りてゆく日々。タロットの「賢者」のカードをご存知でしょうか。洞窟の中、あかりを灯すイメージの示す、内面の探求の旅。それがふと、こころに浮かびます。

そういえば、2021年のはじめに「今年の一文字」として選んだ漢字は「灯」でした。その時抱いたイメージは、内側からあたたまる、ぬくもりあるあかりという感覚です。蝋燭のような、いま・ここにある風を感じさせる・ゆらぐ生命のあかり。

そんな直感に導かれるように、たくさんの再会や出逢いなおしがありました。それは、一見突拍子のないように思えるものさえも、すべて自然な選択の中にあったように思います。

いまだから言えることは、それらの経験を通じてひょっとしたら少しだけ手にすることができているのは「大切なものに向きあう姿勢」の感覚の変化かもしれません。

以前は大事なものに向きあおうとすると、力んで、重く深刻になって、その感覚をこそ誠実さなのだと自分に言い聞かせようとしていたようなところがありました。最近思うのは、大切なことだからこそ、遊びごころがいられるスペースを大切にしてあげようってこと。真正面からみるだけじゃなく、よこから、ちょこっと、いたずらするみたいに眺めてみる。すると(正確に理解する)というのとはまた別の感覚で、何かしら(触れる)ものがあるのです。そんな身体性のなかから生じる(素直さ)って、なかなかここちがいいものだなと思います。リラックスしてるのに凛として、かっこいい。

・・・なんて書いているうちに。一年を振り返ろうと思ったのに、なんだか真面目に書きたいような気持ちが薄まってきてしまいました。

そんな中でも、やはりハイライトとして記しておきたいのは京都のこと。3月。ふとしたきっかけで(京都に暮らす時間を持ったらどうだろうか)と思い立ち、言葉にしてみた。そこから生まれた、京都のある暮らし。何も狙わず、企みもせず、ただ(好き)といること。感覚を信じること。シンプルにそれを欲していたのではないかと思います。大人になると、あるいはお仕事となると、いろいろ理由をつけたくなってしまうところがありますが、時間ってノンリニアなんですよね。だから、整合性とか、あまり気にしなくていいのです。ほんとは、きっと。

さて、2022年。

どんな年になるのかな、とぽんやり考えていた年の瀬。私に降りてきたのは「よろこぶ」という言葉でした。

どんな漢字がよいのだろう。最初「慶」かなと思ったのですが、辞書をみていたらどうも「悦」というのもしっくりくるようです。とろけるようなニュアンスをどこかに感じて。ちょっと考えてやっぱり「慶」にするかもしれませんが、ともかく(よろこぶ)ということなのだというのを、記しておきます。

そこへの想像力を豊かにすることがとっても大事と、私のいのちが申しております。

もうひとつ。これは手放さないぞと誓ったことは(美意識)についてです。私にはこれは非常に大切なものとしてあるのですが、案外表明してこなかったようにも思うので、今年はあえて、言葉にしようと思います。(譲れないこと、というのは防御ではなく浸透に関することであり、膜みたいな質感のものなのだと、私のどこかが感知しています)。

最後に、昨年記した言葉のなかで一番こころを込めたもののひとつをご案内をして閉じようと思います。それは『「わかりあえない」を越える』の翻訳者まえがきとして記した文章です。この確かさを踏まえた上で、今年はもっと冒険をしたい。それこそ美意識を頼りに、学んだ言語を手放しながら、言葉に出逢い直すようなことをしていきたい。

つながる・わかりあう以前に、「いきているいのち」に、その都度新鮮に出逢い直すこと。そのことをまず、思い出しておきたいのです。

(たぶん、あなたが求めているものも、そこにあるのではないでしょうか?)

『「わかりあえない」を越える』の翻訳者まえがき(amazonの 「試し読み」からご覧いただけます。URLはこちら)。