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加賀藩邸の跡をめぐる〜中・下屋敷、六義園・加賀公園編〜

前回、加賀藩の上屋敷を見てきました。東大です。

次は、中屋敷へ。
中屋敷は、隠居した藩主や世継ぎの屋敷です。上屋敷が、江戸城のそばにあるのに対して、中屋敷は江戸城外郭の内側あたりに集まっています。

加賀藩の中屋敷は?

最初、中屋敷は、江戸の牛込にありました。でも、第四代加賀藩主前田光高の死後に無断で尾張徳川家へ譲られてしまいます。

さすがに、第三代藩主の前田利常(光高は若くして亡くなったのでその父)が抗議して、代わりに拝領したのがこの駒込です。
明暦の大火(1657年)の頃なので、その後の土地変更のどさくさに巻き込まれた可能性があります。

新しい中屋敷は、駒込の六義園のあたりにありました。
六義園は、元は江戸中期に、将軍の側用人だった柳沢吉保により、造られた庭園です。

明治に入り、放置されていたところを三菱の創業者、岩崎弥太郎が買取り、庭園を修復しました。  

和歌浦をモチーフにしていて、水がふんだんに取り入れられています。

柳沢吉保は、将軍と老中を取り次ぐ役割の側用人でした。老中よりも上の格、大老格を与えられていたというだけあり、お庭もかなりの広さでした。

ついお庭に見とれてしまったけれど、中屋敷跡を地図から探します。
江戸時代の地図を見てみると、そのあたりに「加州」という加賀藩の記載があります。

地図と格闘し、包方位磁針をかざし、どうやら入口あたりから向こう側も敷地だったらしいと判明しました。

残念なことに、形跡は何も見つけられませんでした。

この中屋敷跡から徒歩数分のところには、東洋文庫ミュージアムがあります。

東洋文庫は、これも岩崎家が1924年に創設しています。大英図書館と並び、世界5大東洋学研究図書館のひとつです。

今のミュージアムの建物は、2011年に建てられました。建築好きにはおすすめです。

加賀藩の下屋敷は?

下屋敷は、主に別荘として使われていて、広大な敷地に大きな庭園が作られていました。
江戸城から離れた郊外に位置しています。

加賀藩の下屋敷の絵図を見てみましょう。

板橋邸絵図 
(金沢市立玉川図書館蔵「江戸下屋敷絵図」)

御殿の周りに田や花畑、庭園があり、そのようになっているのが分かります。
真ん中の大きな池まわりが池泉回遊式庭園になっています。兼六園の7倍の大きさの庭園です。

敷地全体は、二万八千坪。東京ドーム2個分くらい。テニスコートにして、約355面。
ものすごい広さです。
徳川の御三家も含め、江戸で最大の広さの大名屋敷でした。

加賀藩の下屋敷跡のあるのは板橋区です。
江戸時代、街道沿いの板橋宿に下屋敷は隣接していました。

金沢市立玉川図書館蔵

そのため、参勤交代のときに、藩主が休息し、江戸の街へ入るための装束替えの場としても利用されていました。
また家族や家臣の送迎の場にもなっていて、別荘以外の用途があったといえます。

現在は?

加賀公園です。
加賀前田家下屋敷跡〜江戸下屋敷平尾邸〜との看板と石碑があります。

奥には、ステンドグラスのようなモニュメント。
平成20年の金沢市との友好交流都市協定締結の記念に設置されたものです。

金沢人ならピンとくる、尾山神社神門のステンドグラスを模しています。

尾山神社神門のステンドグラス

公園の中に入ってみます。

この辺りが、庭園の築山の一部だった下屋敷の庭園の名残です。
公園の脇には、石神井川が流れています。 

この川の水と、千川用水の水が庭園の池に使われていました。

兼六園の霞ヶ池

兼六園は、辰巳用水から水が引かれ、やはり池泉回遊式庭園です。

帰り際に公園付近の電柱を見てみると、住所が加賀!

さらに、上石神井川の橋を渡ると、その名も「金沢橋」。
でも、おお!と思って携帯を構えた途端、充電切れです。

また江戸の加賀藩邸を訪れたら、今度は金沢橋も撮影することにして、金沢へ。
下道中ではなく電車で帰りました。
いつの日か、参勤交代の約95%で使われたという下道中を辿ってみたいものです。

参考
「加賀殿再訪」 西秋 良宏 編

金沢市立玉川図書館近世史料館展示
加賀藩の江戸藩邸
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/edohantei.pdf
江戸への道
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/edo.pdf

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