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半生文 ~2022新作落語台本発表会~

makihide00と申します。不惑を過ぎたサラリーマンの身ながら2022年の落語協会主催の新作落語台本発表会において佳作に選ばれるという栄誉を頂戴いたしました。せっかくの出来事ですので、少しだけ自分語りさせてくださいませ……(と言いつつ7800字以上あるのはすいません)。



私が落語研究会に入ったのは、決して落語をやりたかったからではなかった。

2000年4月。人生で一度は都に住んでみたい、その一心で鳥取の片田舎から大学進学のため上京した私は、学生時代だからこそできるなにか特別なものを探していた。

演劇か映画かお笑いか……迷っていた私の目にたまたま飛び込んできたのが、落語研究会のポスターだった。

「落語……とっつきにくいなぁ……でも一応『漫才・コントもやってます!』って書いてあるし……」他にお笑い系のサークルを見つけられていなかったこともあり、勇気を出して見学に行ってみた。

学生会館の汚いBOX(部室のこと)に無造作に転がる酒瓶、灰皿、マンガ、スーファミ、寝袋、座布団、落語全集(一応)……10人中9人が眉をひそめるであろうその光景に、私はなぜか「これだ!」と思ってしまった。

落語研究会で過ごした日々は本当に刺激的で濃かった。落語の研鑽に力を入れる人、外部のお笑いライブに積極的に参加する人、BOXでただゴロゴロしている人、メンバーそれぞれ個性が際立っているのもよかった。そして、そんな一見バラバラなメンバー達がお笑いのことになると真剣に熱くなる瞬間も好きだった。

私はといえば、そんな濃ゆいメンバーの中でさしたる個性もなく、ともすれば存在を忘れられるくらいだった。ただ、できる限りBOXには顔を出し、メンバー同士の雑談を聞いては笑っていた。そんな日々を過ごすうちに、メンバー全員とだんだん親しくなっていった。個性のなさが逆に誰とでも馴染める要因となったのだろう。様々なメンバーとの間に様々な濃ゆい思い出がある。

お笑いのほうは自分なりに真摯に取り組んではいたと思う。寿限無とまんじゅうこわいくらいしか知らなかった落語も徐々に詳しくなっていった。ノルマだった月イチの新ネタ披露もちゃんとやっていたし、寄席にもそれなりに足を運んだ。漫才もコントもいろんなメンバーとネタを作り客前に立った。

お笑い一色に染まった大学生活。でも……それに真剣になるのは学生の間だけと私は最初から決めていた。

私には幼い頃から夢があった。テレビ番組を作りたいという夢だ。とにかくテレビっ子だった私は、ある時から出演者側ではなくその裏側の世界に憧れを抱いていた。当時から自分は表に出るタイプではなく裏方が合っているとなんとなく感じていたのだ。いつか自分の関わったもので世の中の人の心をほんの少しでも動かしたい、そう思っていた。

大学3年の後半から就活を始めた。東名阪のテレビ局はすべて受けた。書類で落ちた局もあれば、いいところまで残った局もあった。ラジオ局も制作会社も受けた。だが、内定には至らなかった。

大学4年の夏。地元のテレビ局の最終面接まで残り、そして……落ちた。

もう、潮時だと思った。

憧れと仕事は別物、それでいいじゃないか。それを受け入れることがきっと……大人になるってことだ。自分は人見知りでガツガツいくような性格でもないし、クリエイターとしての才能も結果を残せなかった以上怪しい。向いてなかったんだ。自分には所詮、向いてなかったんだ……。

そう自分に言い聞かせ、私は全く違う業界に志望書を出し、ありがたいことに内定をもらった。

入社後、配属先が縁もゆかりもない福岡になった。仕事は多忙を極めた。でも、そんな中でたまの休みに落研の先輩がお笑いライブで流す映像を作ったり、自作曲を作ったり、ブログに半分ネタの長文を垂れ流したりして、自分の創作意欲を細々と満たしていた。

そうして、15年近くが経った。

結婚して子供ができ、仕事と家庭でいっぱいいっぱいの日々を私は過ごしていた。そんな中、聞こえてくるのは元落研の方々の活躍ぶり。芸人や落語家になったかつての先輩達。長い下積み時代を経て、CMに出たり、ネットにインタビューが掲載されたり、寄席で大人気になったり……その才能が世間に認められはじめていた。

先程、自分には落研時代さしたる個性がなかったと書いたが、当たり前だったのだ。そんなものすごい先輩達に囲まれていたわけだから、埋没して当然なのだ。彼らは当時からめちゃくちゃ面白かった。ネタもそうだが、まず人間として圧倒的に面白かった……どこか頭のネジがはずれているとしか思えないくらいに(いい意味で、いい意味でね)。

彼らのことは、芸人になるべくしてなった人達だと思っている。才能もスゴかった。でも、彼らの一番の才能って実は……諦めずに勇気を持ってやり続けたことなんじゃないだろうか?

それに比べて私は……どうなんだろう。自分に言い訳して夢を諦めて、平凡なサラリーマンとしての人生を自ら選んだ。それは間違いではなかったと思うし、思いたくない。でも……もし私にあの時やり続ける勇気があったなら、就職浪人してでも憧れを追い続けていたなら、あるいは、もしかしたら、今ごろ……。

30代後半、人生の折り返し地点が見えてきた中、私の心はざわめいていた。

そんな思いもあり、新しい世界を見るべくTwitterをはじめたのが37歳の時。ひょんなことから54字の物語を投稿したのが転機となり、ありがたいことに電子書籍「ショートショートマガジン・ベリショーズ」のメンバーに加えていただいた。

ある時、親しくなったメンバーとやり取りする中で「新作落語の台本を書いてみたら?」と激しく勧められた。

今までそんなこと、考えたこともなかった。だから、落語協会が毎年新作落語台本募集の公募をやっていることすら知らなかった。でも、その方があまりに推すので謙遜しながらも、自分の中でもやってみたいという情熱が少しずつ湧いてきた。

実は、ショートショートを書くようになって自分の文章力に少し自信をなくしていた。地の文がとにかく苦手なのだ。自分には頭の中で浮かんだイメージを描写する語彙が圧倒的に少ない。ベリショーズの他の方の作品を読むと、文章が多彩な表現で書かれていてリズムよくスッと入ってくる。それに比べて、自分の書く話はとにかく会話文が多すぎる。

でも……それって、ほぼ会話でストーリーが展開する落語台本においてはむしろ有利なんじゃないか……?

そして、落語を実際に演った経験もきっと活かせると思った。古典を演る時に参照する台本は、だいたいプロの落語家が実際に演った時の音声を書き起こしたもの。だから、噺家のクセによっては言いにくい部分があるので当時適宜直していた。それに、長い噺は端折れるところは端折ったり、自分の考えたくすぐりや展開を新たに足したりもしていた。

すなわち拡大解釈すれば、噺を覚えるたびに毎回落語台本を書いていたとも言えるのではないか……?

それだけ作っても、一言一句台本通りに演れたことなど結局一度もない。語尾が変わったり、お客の反応によって説明を入れたり、あるいは頭が真っ白になって必死に繋いだり……。

学生落語とはいえ、その独特の空気感を舞台上で味わったことがあるのは大きいのではないか……?

自分のストロングポイントを活かせるのは、おそらくここだ。そんな予感があった。

その後、初めての応募で二次選考まで残った。やはり自分の予感は間違っていなかった。そんな思いを胸に秘め、毎年チャレンジしていくことを決めた。

3年目。過去2年は同じ場面に出てくる人数が多すぎて演じ分けが困難だった。その反省を踏まえ、極力少ない人数で成り立つ噺を書こうと思っていた。そして、ガチガチに固まった台本ではなく、くすぐりを足したり引いたりを容易にできそうな展開がいいと思っていた。

学生時代に自分が演りたいと思った古典は、スジが面白いのはもちろんとして、演じ分けしやすくある程度自分の思った通りに脚色しやすい噺だった。人の作った台本とはいえ、そこに自分の色を入れたいのが芸人のサガ……素人でさえそう思うのだから、きっとプロの方ならなおさらではないだろうか。

噺家の方が審査員である以上、そしてゴールが発表会という客前での実演である以上、この噺なら実際に演ってみたいと思わせるような台本を書くのが受賞への近道なのではないか……?

……なーんて偉そうに書いているけど、実際にそんな台本がポンポンできるわけがない。特に今回は締切10日前まで何も浮かばず不参加も考えるほどだった。

それでもなんとか書けるかもというアイデアがやっと浮かび、勢いのまま書いて出したのが締め切り2日前(福岡から普通郵便で届くギリギリの日←速達使えよ)。一幕もののワンアイデアで押し切るどちらかといえばコント寄りのストーリーだが、第三者の描写を入れることでかろうじて落語テイストも感じられる作品となった……と思う(古典の湯屋番のイメージ)。

9月下旬の某日。そういえばそろそろ発表会の告知が出る時期ではないかな……午前中、仕事をしながらふとそんなことを思い検索したがまだ発表されていなかった。今思えば、これが虫の知らせというやつだったのだろうか。

夕方、スマホが鳴った。表示された03の市外局番……もうこの時点で「マジかよ」と思っていた。そして、電話に出ると……。

もちろん応募した以上は受賞を夢見てやっているわけだが、いざ連絡を受けてみるとほとんどピンと来なかった。しかし、正式発表となりチラシに載った自分の名前を見て、徐々に実感が湧いてきた……こりゃえらいことになった、っていうか、トリかよ!

早速Twitterで報告すると、多くの方から祝福のコメントをいただいた。本当にありがたい。そして、続々と届く当日の参加表明……。

恥ずかしながら、ここ数年、自分の心の支えはTwitterで得た繋がりになっているのは否めない。いつの間にか、リアルでのしがらみを忘れもっとも自分を素直に出せる場所となっていた。そして、そうなったのはやはりベリショーズの存在によるところが大きい。メンバーの様々な活躍に刺激を受けてきた。また、いろいろといじっていただきキャラクターを確立できた部分もあった。定期的に創作できる環境=ホームがあるというのは本当にありがたいことだ。

新作落語を書き始めた経緯も含め、間違いなくベリショーズメンバーは私の恩人と言える。だが、私は福岡在住。中心メンバーの住まう関東は遠く、そう簡単にお会いできる機会などない。私は出張も多くない。ましてやプライベートで単身遊びに行くことなど奥様が許すはずがない。しかし、いつかはお会いしてちゃんとお礼を言いたい。まぁでも現実的に考えてオンラインかな……なんて心の片隅で思っていた。

今回の発表会でその願いが叶う……。実は受賞より、このことが一番うれしかったかもしれない。

そして、あっという間に当日。息子を園バスに乗せた後、めったに着ないスーツに袖を通し空港へと向かう。胸に去来する期待と不安……甲子園へ向かう球児たちはこういう心境なのかなとふと思った(経験ないけど)。

発表会の会場は池袋演芸場。20年ぶりくらいに駅に降り立つと、早くも感じる圧倒的アウェー感。街行く人々が皆殺伐としているように見える。少しでも気を抜いたら後ろから刺されるんじゃないかとビクビクしながらホテルにチェックインした(言い過ぎ)。

ビジネスホテルの一室で悶々と小一時間過ごし、外へ出る。すっかり辺りは暗くなっていた。演芸場の前に行くと、既に長蛇の列。そして、その後方に見つけたのは一人の男性の姿。TVディレクターとなった落研の先輩と実に大学卒業以来の再会だった。忙しい合間を縫ってわざわざ駆けつけてくれた心意気に感謝するとともに、知り合いの存在にかなりホッとした。

久々とは思えぬフランクな会話に花を咲かせていると、斜め前のコンビニの前に人影。あぁ、オンラインで相手の顔を事前に知っているというのは実に大きい……たらはさんと10さん!あああ、実在してる……!

先輩と一旦別れ、内心ドキドキしながら、でも、なんだか初対面とも思えない不思議な感じで挨拶してヌルっと合流。程なくして秋柴さん、ささささん、次々とやってくるベリショーズメンバーの皆様。ありがたや、ありがたや……。

メンバーとともに会場へ入って軽くびっくり。あれ?こんなに狭かったっけ?すでに客席の8割方が埋まっている状態で、なんとか席を確保。池袋演芸場には学生時代に一度だけ行ったことがあったが、こんなに狭かったっけ……?

しばらく後にむうさん、そるとさんが合流。そして、会の途中でイチフジさんも。あああ、みんな本当に実在してる……!(しつこい)

普段の寄席とは違う発表会ということでどういう空気になるのかと思っていたが、趣旨説明を含めたオープニングトークで客席を温めるのはさすがプロの噺家。

しかし、あれだけ集中して落語を観たのは初めてかもしれない。他の人がどういう噺を書いたのかを知ることは今後にも活かせる。そしてなにより、この晴れの舞台をしっかりと記憶に焼き付けたいと思ったからだ。

私以外に今回選ばれた4人は新作落語台本界の常連。お名前をググッたら落語関係でどんどんヒットする皆様。ニッポン放送の取締役しか出てこない私とは違う(偶然同姓同名なんですよねぇ)。

やはり、他の方の噺は展開の妙というか深みが違う。正直言って自分の噺はコントでもやろうと思えばできるボケとツッコミがはっきりした会話劇だった。落語ならではという部分をもう少し入れないといけないと感じた。

でも、自分の書いた噺をプロの噺家が目の前で口演してくれる。そんな機会はめったにない。私の拙い台本にたくさん芸人視点のくすぐりを入れていただいた世之介師匠には感謝の気持ちでいっぱいだ。

口演が全て終わり、表彰式。ここで作者も舞台上に呼ばれた。予想はしていたとはいえ胸が高鳴る。でもそれは、最優秀賞受賞への期待ではなく、学生の頃客席から観るだけだった寄席の舞台に自分も上がることができるという感動からだった。池袋はついひと月ほど前に落研の先輩である某噺家さんが主任を務めた舞台。立場は違えど、そこに私も立つことができた……なんだか感慨深かった。

で、最優秀賞なし、優秀賞2作という説明があり発表。やはり私の名前は呼ばれなかった。しかし、2年続けて最優秀賞なし、か……これはまだまだ精進する必要がありそうだ。それでも佳作ということで金一封を舞台上で頂戴する。それにしても喬太郎師匠、腰が低かったなぁ……。

しかし低いねぇ……

その後、雑誌用の記念撮影。なにを隠そう、この時の記者兼カメラマンの方も私の落研時代の先輩なのだった。そのテキパキした仕事ぶりに感心しながらも写真に納まる。

写真を撮り終えてどうしたものかまごまごしていると、受賞者の今井さんがこちらにやってきた。ド緊張していてもTwitter上での約束(?)は忘れていない。我々は舞台上でハグを交わした。天心VS武尊戦Youtubeで見返しておいてよかった(今井さん、初対面なのにグイグイいってすいませんでした)。

そして、舞台上からほぼ全員がはけてお客の撤収も終わりつつある頃、先ほどの記者の先輩が私に声をかけてくれた。

「写真撮ってやるから、真ん中座れよ」

それは記者としてではなく、落研の先輩としての心遣いだった。ちょっとグッときた。そして、後日出来上がった写真を見てもっとグッときた。落語家になりたいと思ったことはなくても、かつて落語をやってきた人間としてこれ以上ない名誉な写真だ。

いやほんと、いい笑顔してますわ(見えんて)

外に出ると、最初に会ったTVディレクターの先輩がいてあれこれ言葉を交わしていた。すると、おもむろに一人の男性が近づいてきて……。

「makihideさん、おめでとうございます。密山です」

名刺とお土産を渡されたが思考が追い付かない。え?でも密山さん、関西……でも確かに目の前にいるのは……これは本当にサプライズすぎた。サプライズすぎてたぶんリアクションが薄かった(すいません)。そして風のように去っていった。まさかこんなTwitter上で知り合った私なんぞのためにわざわざ池袋に来ていただけるなんて……素敵すぎる(他の予定も兼ねてと聞いて内心ホッとした)。

その後はベリショーズメンバーとの打ち上げ。もういろんなことがありすぎて体の温度調節が利かなくなったのか、汗が止まらない。そこでもいただいたのはたくさんのお土産。通りもん買っていってよかった。

しかし、みんな今日の発表会のために集まってくれたかと思うと感慨深い。Twitterをやっていなければ決して知り合うことのなかった人達、新作落語台本を書いていなければ生まれなかった夜、そう考えるとこみ上げる達成感があった。

そしてもうひとつうれしかったのは「初めて寄席で落語を観たが面白かった」という方が多かったことだ。その声を耳にしながら、私は落研時代の最後の落語会を思い出した。

大学4年の秋、最後の落語会で私は「茶の湯」でトリをとった。小三治師匠と志の輔師匠の茶の湯をミックスし自分なりのネタも加えて仕上げた。これが集大成のつもりでかつてないほど一生懸命だった。その落語会に同じゼミの友人が半ば義理で来てくれた。落語を観るのも初めてという友人は、後日ブログを通じて私の落語を褒めてくれた。「落語のイメージが変わった」と……。それは本当にうれしい出来事で、その言葉は社会人になった私を長らく支えてくれた。素人の身でおこがましいけれど、自分の落語が誰かに届いたんだと。

かつてクリエイティブを志していた頃の私の夢は、自分の関わったもので世の中の人の心をほんの少しでも動かしたいというものだった。

あの落語会の時も、そして今夜も、形を変えてちょっとだけ夢は叶っているのかもしれない……。

打ち上げ解散後は、既にへべれけ状態の10さんとサシで二次会、三次会へ。久しぶりにあそこまで酔っぱらった人を見た気がする。そしてanan編集部もビックリの10さんの愛され力がなんとなくわかった。

店の外で寝る、トイレに行っている間に勝手にタクシーで帰ろうとする……普通の人からすればいい迷惑なのだろうが、私はむしろ懐かしかった。かつては毎週、下手したら毎晩、いろんな酔っぱらいを相手していたなぁ……まぁ私もたいがい酔っぱらっていたけど……かつての落研時代の記憶を、私は10さんに投影していた。

お互い服は着ていましたがこんな感じでした(壬生乃サルさん 画)

今思い出しても、大学入学からの私の人生を集約したかのような夢のような一日だった。あまりに盛りだくさんで本当に夢だったんじゃないかと思うほどだ。現時点では、私の人生最良の日といっても過言ではない。

ただ、現時点では、だ。一発屋で終わるつもりはない。次回、次々回、いや、その先も……さらなる高みへ、あがいてみよう。なにより、よく考えてみれば緊張と慌ただしさで、私はあの日きちんと皆様に面と向かってお礼を言えていないのだ。

かつて自分に自信を持てず何者にもなれなかった男は、相変わらずまだ何者にもなれていない。でも、挑み続ける限り可能性はきっとある。

オチつかない日々は、まだこれからも、続いていく。

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