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58.内田裕也さんを偲んで

あれは年末のニューイヤーロックフェスティバルにヒカシューが出たばかりの、年明けの1月のある日だった。新橋のニュー新橋ビルの公衆電話を使おうと思ったら、先客がいて後ろに並んだ。髪形からなんとなくロッカーだなと思ったものの気をつけていなかった。
「あ」
と思わず声が出た。先客は、内田裕也さんだった。
電話を終えると、「マキガミかぁ、たまには連絡しろよ」と言い放ち、「年末よろしくね」と言った。12ヶ月後のイベントを念押しされた。
裕也さんは、ヒカシューにフランク・ザッパの初期マザーズをみていて、大変評価してくれていた。
「ヒカシューはマザーズだよね」と事あるごとに言っていた。ありがたいにも程がある。
なにしろフランク・ザッパを日本に呼んだ最初で最後の人から言われたのだから。
裕也さんほど日本のロックを世界へと熱望していた人はいないと思う。
初めて裕也さんに会ったのを明確に覚えていないが、たぶんぼくが17歳の頃だから1973年だったと思う。フラワー・トラベリン・バンドが活動休止したあたりで、ぼくは深水龍作さんのお使いで何かを渡しにワーナー・パイオニアの裕也さんのデスクに行った時だと思う。
あとは、日比谷野音でのキャロルのコンサートの時だろうか、クールズが護衛でついていて、客席の警備を手伝いに行った時だったかなぁ。
そして、ヒカシューがデビューする時だ。というのもヒカシューのプロデューサーの近田春夫は、裕也さんのバンドのキーボード奏者だったから、自動的にヒカシューは裕也ファミリーに加えられていた訳だ。
そんな思い出もあるのだが、2009年にヒカシューが渋谷のクラブ・クアトロでヒカシューとジューシー・ハーフ(半分がオリジナルメンバー)のライブをした時に、招待していた近田さんが開演前にふらっと現れたのだ。「俺、終わったら早く帰るから、先に挨拶に来たよ」
そして、ライブの中盤くらいだったろうか、ぼくが歌っている正面あたりにライオンみたいに神々しい
白い髪の人物が立った。紛れもなく内田裕也さんだった。当日券を買って入ってくれたらしい。
ヒカシューのアンコールが終わると、帰ると言っていた近田さんが裕也さんと楽屋にやってきた。
「ヒカシューはロックでしょ」と裕也さんを煽った。
裕也さんは、ぼくと握手するなり、「矢沢永吉です」といきなり先制ギャグを放ってきた。そのスピード感に反応できなかったのが悔やまれる。
「ヒカシューはやっぱフランク・ザッパ(マザーズ)だな。寺山とも共通のものを感じるよ」 30年前にもたびたび言われたことを繰り返した。これは裕也さん最大の評価である。とにかく裕也さんはフォークが嫌いで、その意味は、小市民的なところに安住するな、ということなのだ。ロックは英語か日本語かという議論もあったが、それよりも反骨精神を重視していた。
はっぴいえんどはロックじゃないと言ってるのもそれで理解できるだろう。
裕也さんが日本のロックに残した功績は大きい。
そんなことを裕也さんの訃報を知って、考えていると、昔の裕也さんのマネージャーの白川さんから電話があった。

巻上公一

2019.3.24

追記

内田裕也ロックンロール葬に行ってきた。

内田也哉子さんの謝辞が、才能に満ち溢れ、本当に素晴らしかった。
弔辞も皆さんユーモアがあり、貴重な裕也さんの姿が浮かびました。

ぼくは近田さんが弔辞をするものとばかり思っていたし、バンドの演奏もあるのかと思っていたので、ちょっと芸能界よりの人選に戸惑いましたね。

裕也さんは、彼の考えに理解を示さない芸能界と戦ってきましたから。ちょっと違和感がありました。


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