王様の耳はロバの耳

「友達の友達」が炎上している。燃えてる事案については私も思うことがあり、一瞬Twitterに投稿しかけたけど、まあけど友達の友達だしなと思って結局やめた。

前々からネット上での言動や立ち居振る舞いに違和感があった。が、友達の友達なんだよなー、と思うと、その感情に若干の後ろめたさがつきまとう。もちろん友達だ、知り合いだからと、相手の友達まで好きになる義務はないのだけど、その「友達の友達」に関する見解の相違で「友達」との間に溝ができたら何とももったいない気が大いにして。

「友達の友達」は果たして「友達」の一部なのか。そんなことを考えながら行ってみたかった近所のカフェへ。

ハイチェアなのが微妙、ただ自転車で行きやすくはあって、気分転換するにはいいのかも。

私にとって、渋谷でいちばん仕事しやすいのはカフェマメヒコだ。ただ最近14-15時にお店を閉めるようになって、タイミングが合わずしばらく行けてない。まさにその時間に使いたいことが多い私にはこの措置がなんだか恨めしく、そういえばこのことも呟こうと思ったものの、オーナーは知り合いの友達だしとなんとなく気兼ねしてやめたのだった。

以前友達のTwitter上での発言にTwitterのフォロワーさんが怒ったことがあって、それがキッカケ?何人かからブロックされた。誰かの友達、というのはやはり多くの場合、その人自身の一部なのかも知れない。

ただこの間友人とやっているclubhouseで「美味しくなかった店を美味しくなかったというレビュアーは信用できる」という話をして本当にそうだなあと思った。最近夢中になって読んだエッセイスト荒木陽子さんも、物言いがスッパリしているのが気に入った理由のひとつ。そう、思ったことをスパッと言うのはテクニックと、そして気概がいる。

ただそこまでして書きたいのかなあ、なんて思いが私にはずっとある。世の中の明るい部分だけ、プラスの感情だけにスポットをあてて、書いていけないものか。それで信用してもらえるなら、それが本当はいちばんいい。

飲み込んだ言葉はこうやってこっそり供養する。王様の耳はロバの耳。

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