夕暮れの缶ビール

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Perch.のお手紙 #91

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理不尽に奪われた、という記憶が長く人を苦しめるように思う。


理不尽に、というのは、自分は悪いことをしなかったのに、自分にはその苦しみを受ける理由がなかったのに、という言葉に言い換えられるような気がする。


なぜその苦しみが自分を選んで訪れたのか、あらゆる理由を考えたり、納得のいく理由が見つかればもしかしたらラッキーな方で、意外にそれはたまたまで、たまたまとなるとまたそれを受け入れるのに時間がかかることもある。


例えば私にとっては、コロナが起こったことで、ある日突然ケータリングという仕事がほとんどなくなってしまったことがそれにあたるかもしれない。
2年経った今でもふと、なぜ?という気持ちに襲われて、折り合いをつけるために葛藤をしている。


そんな理不尽に奪われた、という経験は、ある人にとっては例えばいじめかもしれないし、例えば家庭内暴力やネグレクトかもしれない。災害かもしれないし、戦争かもしれない。
もしくは、もっと名のない、小さくて些細な出来事かもしれない。



先日、3歳年下の妹が夜ご飯を食べに来ていました。


2月は心身ともに、公私共に激務続きで、ほとほとやられてしまったので、休みの日も何もできず、その日も1日家に引きこもっていて、夕暮れ時にビールが飲みたくなったけれども、徒歩1分のコンビニにすら出かけられなくて、夜ご飯を作る代わりにビールを買ってきてもらったのでした。


こういう心底甘えたことをお願いできるのは、私にとっては家族だけだなぁ、と妹には少し申し訳ない気持ちでした。



私は、何年か前に所謂「見える」人に見てもらった時、「ものすごく珍しい人、あなたの中に5人いる、宇宙人」と言われて、普通のことが普通にできないことが悩みだと言ったら「いわゆる普通のことは出来ないやろ」と言われたことがありました。


これには私も周囲も大納得、というくらいちょっと変わったひとなのです。


しかし、妹もなかなかの変わり者で、なのだけれども、お姉ちゃんがあまりに変わっているので、自分が変わっていることに最近まで気づかなかった、という話をしていて、とても驚いた。


妹も、大概変わり者です。


「自分」という人を考える時に、知らず知らずのうちに誰かと比べて「自分」ということを考えてしまうのだな。


きっかけとしてはいいこともあるかもしれないけれど、誰かと比べているうちは、本当の自分にたどり着けないこともあるよなぁ、と思ったのでした。



私が近くにいたことで、彼女が自分自身と向かい合う時間を奪ってこなかっただろうか、とふと考えた今週だったのでした。


理不尽に奪われた、という経験の1番恐ろしいところは、実は、では私も理不尽に奪ってもいい、という種になり得ることだなぁ、と考えたりしています。