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サカベコへの道

 福島第一原発事故をきっかけに赤ベコの虜になった私は、会津若松に頻繁に通い、ついには赤ベコの作り方を教えてもらうことに。そして赤ベコを世界に広めるためには、ワールドカップを目指す必要がありました。そこで開発されたのがサカベコです。

赤ベコとの出会い

 2011年、東日本大震災でまさかの原発事故が起きてしまいました。まさに未知との遭遇で一体どうなってしまうんだろう。東京にいても不安だらけで灯油は買えない、カップラーメンもスーパーから消えて、当時一歳児だった息子の紙おむつも買えない状況でした。私は、イラクで使用された劣化ウラン弾の被害者である小児がんの子どもたちの支援団体を運営していたので放射能のこともある程度は知っているつもりでした。実は大学では保険物理の研究室にいたのです。そこで、福島支援もやらなきゃということで、少し落ち着いてきた6月頃から頻繁に福島に通うようになりました。赤ベコを売店で見かけて、これはかわいいなあと思い、たくさん買ってイラクの小児がんの子どもたちのプレゼントにしました。できるだけ福島の物を買って応援しようという目論見もありました。

イラクの小児がんの子どもへ


 赤ベコは、福島の復興のシンボルになっていました。それには理由があって 600年くらい前に会津地方で地震があり柳津にある円城寺と言うお寺が倒壊してしまいました。再建しようと材木が集められましたが、過酷な労働に、荷物を運ぶ牛たちが途中で命を落とします。その時赤毛の牛がやってきて、荷物を運び、お寺は無事に再建したという伝説がありました。
 その後戦国時代があり、本能寺の変で豊臣秀吉側についた蒲生氏郷が、1590年に会津藩主になり、城下町の開発に力を注ぎました。下級武士の内職として京都から張り子職人を招いて、技術を習得させたのが会津張り子の始まりと言われています。

蒲生氏郷の目指したもの

 戦国武将として名をはせた蒲生ですが、街づくりにもたけていました。近江から、松坂、そして会津と移り住みますが、城下町では商業を発展させようと力を尽くし、近江商人、松坂商人と後々に商業が栄えるきっかけを作りました。35歳で会津を任された氏郷は、自由経済都市を作りました。武士に張り子を作らせるという発想が斬新です。現在も赤ベコやさんは祖先が武士であることを誇りにしています。また、氏郷は、大阪でキリスト教の洗礼を受けレオという洗礼名を持っていました。江戸幕府がキリスト教を禁止するまでは会津には多くのキリスト教徒がいたそうです。

 さて話をもとに戻すと、会津地方に根付いた張り子づくりですが、その当時、天然痘がはやりました。赤ベコは子ども達を守るお守りとして作られたそうです。黒いぶちはかさぶたを意味していて、病魔が子どもに取りつかずに赤ベコの黒いふちに吸収されると言い伝えられてきたそうです。

戦国武将が、兵士に広めさせた赤ベコ。現在戦争だらけの世界でも、この赤ベコは平和のメッセージを運んでくれる気がします。シリアでは、いったん戦士になったら、戦争以外は、考えられずにシリアの治安が落ち着くとリビアやアゼルバイジャンまで戦争に出かけていく傭兵もいました。シリア革命はどこへ行っちやったんでしょう。世界中の兵士が戦争をやめて赤ベコづくりに励むというのも悪くないですね。

蒲生氏郷

サッカー・ベコ

 2014年のワールドカップブラジル大会。イラクに限らず中東の子どもたちはサッカーが大好きです。2次予選を勝ち抜いた日本とイラクは同じ組で戦うことになりました。そこで、どうせなら便乗してしまえということで、買ってきた赤ベコにユニフォームを塗ってみました。

 イラクのサッカーと言えば、「ドーハの悲劇」が有名です。まだ日本は一度もワールドカップに出ることができなかった時代です。1994年のアメリカ大会の予選が、カタールのドーハで開催されました。日本が勝てばワールドカップ初出場が決まる。三浦知良のゴールで2-1でリードしながら後半ロスタイムでイラクに同点に追いつかれてしまいワールドカップの夢を逃してしまいました。日本のサッカー史上紛れもなく一番印象に残る試合として語りつがれています。1993年と言えば1991年の湾岸戦争後で、イラクは国際的に仲間外れにされていました。イラクのサッカー協会の会長はサダム・フセイン大統領の長男、ウダイで、試合に負けると拷問するなど評判は悪く、アメリカはイラクが勝ち進むのを好まず、審判もかなり日本よりだったと言われています。ちょうど20年後、奇しくも「ドーハ」が再び決戦の場となりました。ただ、日本は前節でオーストラリアを破りワールドカップ進出を決めていましたので消化試合。一方イラクはワールドカップへかすかな希望をつなぐ大事な一戦でした。かわいそうなのはイラクで、治安が悪いことを理由にイラク国内での国際試合は一切できなくなっていて、第三国としてカタールのドーハになりました。しかし、カタールがイラク人のビザを一切出さなかったので、ホームのはずなのに応援団がほぼゼロ。アウェイの日本の方が多かったのです。

イラク側の応援はほぼゼロ
イラクのキャプテンで2007年のアジア杯を優勝に導いた立役者、ユーニス・マフムード選手
試合を見に行く前にバグダッドの小児がん病院で赤ベコを子どもたちにプレゼント

イラクのサッカーは、戦争が続くイラクにあって希望をもたらす大切なものでした。アメリカは、「911の背後にイラクがあり、サダムフセイン政権は大量破壊兵器を所有、あるいは開発を進めており、ほっておくと危険である」としてイラクを攻撃したのは2003年のことでした。しかし、むしろテロを押さえつけていたのはサダム政権であり、政権が崩壊し、アメリカの占領が始まると世界中から反米テロ組織が集結してイラクは内戦状態になります。スンナ派とシーア派の対立も進み、まさに地獄でした。そのような中、2004年のアテネオリンピックでは、サッカーでイラク代表が4位に。2007年のアジアカップでは優勝を成し遂げ、同じイラク人がどうして殺し合わなければいけないのか?イラク人が団結してテロや暴力を排除しようという機運が高まりました。がんの子どもたちにとってもそれは支えでした。そして赤ベコも、福島の復興のシンボルになったようにがんの子ども達を和ませてくれるものでした。
残念ながら、イラクは日本に敗れワールドカップの出場を逃しましたが、この時に出会ったユーニス・マフムード選手も協力してくれて、サカベコ・プロジェクトへと発展するのでした。


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