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小説【まち子の指先】(2)

     破

 前日から降り続いた雨が水たまりをつくり、地面に凹凸があることを教えてくれる。昼間の太陽もすっぽり分厚い雲に隠れている。交差点に赤いライトを点滅させたパトカーとひしゃげた車がいて、ほぼすべての通行人が立ち止まって覗きこむ。行く手を阻まれた車たちのいらだちが細かい動きに現れて、歩く人たちの気持ちを落ち着かなくさせる。交差点からワンブロック先の不動産屋の看板が雨粒を滴らせていた。
 不動産屋の若い男がアウトプットした用紙をテーブルに広げる。この物件はまだ築二年の分譲貸しです。3LDKで百三十平米あり家具付きですが毎年更新なので格安の二十万円になっています。家主さんが海外から戻るまでということです。では、これを見にいきましょうか。車をまわしてきますので少しお待ちください。雨粒が車の窓ガラスを濡らす。道路沿いの木々の新芽がやわらかい緑で街を染めていた。神社の横を過ぎるとまち子が住むマンションが現れた。片側一車線の通行量の少ない道を隔てて建つ三階建てのハイツの背後に不動産屋が薦めたタワーマンションがそびえていた。広いエントランスを不動産屋の男が進み、エレベーターに乗り込んだ。七階南向きのベランダからの景色は雨に煙っている。高速道路と交差する川が、雲間から顔を見せた太陽の光を受けて一瞬煌めいた。北側の窓の下にハイツの屋上があり、道を隔てた向こうにまち子の部屋がある。ベランダの観葉植物が風に揺れる。では、こちらでよろしいですね。鍵はすぐ渡せます。戻って手続きをいたしましょう。即決を喜んでいるようだった。
 月曜日の朝のミーティングを終え、営業マンたちは生地を詰め込んだキャスター付きの大型鞄を引きながら次々と出ていった。君は今日から、僕と一緒に客先をまわるからな。先輩が新入社員の一人に声をかけた。島津くんは、先週客先に頼まれたマップづくりをよろしくな。だだっ広い部屋にたった一つの鋏が鳴らす音が響く。五人いた新入社員たちは、数日おきに一人、また一人と消えていった。十二時まであと十分という時間に内線電話がかかる。まだ、そこでこき使われているのか……部長に言ってやろうか? 祖父のしわがれ声が受話器の向こうで割れた。そうか、ならばいいが、困ったことがあったら言いなさい。それと、なぜ急に遠くに引っ越したのだ。金は振り込んでおいたが、婆さんがさみしがっているから、前みたいに食事をしにきなさい、わかったな。生地が切られる。様々な色柄の生地の断片が台紙に貼りついていく。
 北に窓がある部屋の蛍光灯は消されたままだ。三つのスポットライトが薄黄色の光を床に落としている。窓際に据えられた望遠鏡のかたわらに、丸テーブルと椅子が二脚ある。まち子の部屋は暗い。誰もいないはずの部屋のカーテンが揺れた。まち子は今頃生徒たちにアレンジメントを教えている。小さな動物がカーテンとテラス戸の間に姿を見せた。うっすらとした光の中で、動きまわる。ピントを合わせた望遠鏡が犬のつぶらな瞳を捉える。両耳から目にかけて黒いひし形があり、頭のてっぺんと体毛は白い。狆とマルチーズのミックス犬のようだ。細い指先であの長い毛を梳き愛撫される対象物は、まち子を待ちかねるようにベランダに身体をくっつけて外を見ようとしていた。
 まち子の部屋に明かりが灯り、犬はカーテンをくぐり抜け、いなくなる。カーテンとテラス戸が開けられ、まち子が姿を現す。後ろからの光でシルエットが浮かび上がる。まち子は無防備に動き、食卓テーブルに皿を並べる。その後ろを犬がはしゃいでついて走る。ときどきまち子は足のつま先でつついてやる。犬はふくらはぎに身体をすりつけ、頭を上向ける。視界にはまち子の下半身があるはずだ。犬は後ろ肢で立ちあがり、スカートの中に頭を入れる。まち子は身をよじり中腰になった。犬は一層激しく身体を動かし、スカートの生地をよじらせる。まち子は口を開き笑う。とうとうまち子はその場に座り込み足を開いた。両手を後ろにつき身体をのけぞらせる。犬は股間に顔をすりよせ、しきりに首を振る。まち子は太ももを露わにして腰をゆっくりと上げ下げしはじめた。犬の興奮は高まり、ときどき後ろ肢で床を蹴りまち子の股間に突進を試みる。まち子は急に弛緩する。身体全体から力が抜け、首ががくんと後ろに倒れた。胸が上下に動き、桜色に変わった肌が湿り気を帯びる。犬はふらふらとまち子の脚の間から姿を現し、歩き去る。
 ふいにまち子は立ち上がり、まくれあがっていたスカートをゆっくりおろした。何事もなかったようにテーブルにつき、サラダとカレーライスを猛然と食べだした。唇についたルウを半開きにした口から舌をだして舐めとった。まち子は空いた皿を持って消えた。再び現れたまち子はリードを提げており、跳ねる犬を押さえつけて装着した。部屋の明かりを落としてまち子はいなくなった。
 マンションの入り口から現れたまち子は、ぽつりぽつりと暗い光を放つ街灯の光に導かれるように犬をまとわりつかせて軽やかな足どりで歩きだした。昼間の乾いた空気はすっかり夜の冷たい湿気に置き換わっていた。薄いサングラスがあたりをいっそう暗くする。まち子はベビーピンクのゆったりしたスウェットの上下をまとい踊るようにステップを刻む。きっとあの下には何も着ていない。犬がめったやたらに、リードを引っぱったりゆるめたりしながらついていく。まち子は鎮守の杜に向かった。穢れを神域に持ち込もうとしている。黒々とした楠の林の中に現れた一畳ほどの空間でまち子は立ち止まり、犬を傍らの細い木に繋ぐ。下草が生えたそこにだけ半月の淡い光が降り注ぐ。金銀の光の粒を浴び、手のひらを上にして腕を突き上げた。曲げ伸ばしする指の先で爪が輝く。存分に月の光をその手に受けとめたあと、足を開き身体を弓なりにそらした。胸のいただきがスウェット生地を押し上げる。まち子はゆっくりと身体を起こし、そのまま今度は身体を前に倒す。動きにしたがい、胸が揺れた。突きだされた尻の割れ目がくっきりと月光の下で浮かび上がった。その尻がじょじょに近づいて、手が届く距離になる。黒い手袋をはめた手を尻にあてられたまち子は、びくりと身体を弾ませて反射的に逃れようとする。まち子が片腕に抱えこまれたとたん、怯えの混じった高い吠え声をあげた犬は、蹴り飛ばされ静かになる。振り向こうとするまち子は口を手で覆われたまま首筋が固定される。小刻みにふるえ嗚咽を漏らす。片方の手袋をまち子は口の中に突っ込まれる。ルウを舐めとった舌が、押し出そうと無駄な努力をする。胃のあたりからえずきが起こり、まち子は身体をよじらせた。スウェットをくぐって手のひらが這いまわる。やはり下着をつけていない。こんなところに誘いこんだのはまち子だ。胸や尻だけでなく、まち子の全身はたった一つの手に翻弄され、湿り気とともに毛孔から花の匂いが立ちのぼる。乳房をまさぐっていた手が急にまち子の手につかみとられ、あたたかい手のひらで包まれた。まち子は指先で太い指を一本ずつ愛撫しはじめる。花をつまんでいたあのしなやかな指先で。脳細胞が痺れていく。ふいにまち子の手に力がみなぎり、左の太い中指を甲の方に曲げた。ぽきりと音がした。かたい肘が後ろに突きだされた。尖った石が手のひらに食いこみ、まち子の残滓が消失していく。意識を戻した犬の遠吠えとまち子が土を蹴る音が遠ざかっていく。脚が伸び、泥にまみれたスニーカーにくるまれた足がのろのろと動きだす。次第に動きは早まり、来た道を駆けだしていった。
 まち子が犬と部屋に帰ってきた。薄暗いなかでまち子はじっと外を見て、ゆっくりと遮光カーテンを引いた。たぶん、これから二度と開く事はない。
 出勤する男たちが足早に駅への道を急ぐ。朝の陽ざしが鎮守の杜を明るく照らす。太陽が、木々の匂いを包みこんだ夜の湿り気を蒸散させ、まち子がいた空間に漂っていた昨夜の妖しい気配も消し去った。黒い手袋が落ちていた。眠っていた鳥たちが起きだして、しきりに啼きかわしながら、枝から枝へと羽を広げて飛びうつる。神が宿る場所に居座る異端のものを見つけて騒いでいる。鳥の声が追いかけてくる。こいつだ。こいつだ。
 消毒の臭いがする外科病院の待合室には老人ばかりが座っていた。レントゲン室の四方の分厚い壁が少しずつ狭まってくる。壁には中にいる者を押しつぶそうという意志がある。息がつまりパニックに陥る寸前に扉が開く。まだ大学生のような若い医師が、中指は骨折していますね、と言った。看護師が処置の準備をしはじめる。固定して自然にくっつくのを待ちます。いったい何をしていてこの指だけが折れたのですか。看護師は無遠慮な視線を向けて薄笑いした。受付の女性がにこりともせず料金を告げる。隣接した薬局の女性もまた、薬を渡しながら気持ち悪いものを見つけたように顔をしかめたあと無理やり笑顔をつくった。壁にかけられた鏡には、全身が映りきらない巨体があった。おどおどとうつろう瞳には生気がない。スマートフォンが振動した。今日、会社を無断欠勤したな、部長から連絡があったから風邪をひいて寝こんでいるらしいと言っておいた。わしに恥をかかせるんじゃないぞ。祖父はがなりたてた。
 翌朝になってもカーテンは開かずまち子が部屋にいるのかどうかもわからない。マンションの入り口から出てくることもなかった。指が痛い。社内の人間が冷たい視線を浴びせてくる。きっとみんなが知っている。あの美人の花屋の店主をひどい目に合わせたな、と無言で責めてきた。幼稚園児じゃないんだから休むときくらい自分で電話すればいいよな、という聞こえよがしな呟きの波が寄せてくる。鼻で笑った息が幾重にも重なってなまぬるい空気を生む。おい、あいつの左手見てみろよ。なんだ、あの大袈裟な包帯は。休んだことの言い訳か。風邪ってのは、嘘じゃないのか。いつもの部屋のテーブルの上で、重ねられた生地の山がくずれそうになっていた。紙の束と一本の裁断用鋏がかたわらにある。サンドイッチとコーヒーの入ったコンビニ袋がその横に並べられた。
 夕闇の中で、まち子の店の中には若い女性たちの活気があふれている。色とりどりの花の中から黄色い花が選ばれて、みんなが見守るなか華麗な花束ができあがる。急にまち子が顔をあげた。鋭い目つきで入り口を見る。怪訝そうな顔つきの女性たちに気づいたようにまち子は元の笑顔に戻った。女性たちが出てきてしばらくしてからまち子が現われて、いつもの儀式を終えたあと、隣のパン屋に入っていった。男の片付けをまち子はいそいそと手伝いだす。男の左の薬指にはめられた指輪が店内の明かりを反射してきらりと光った。その手にまち子は自分の手を重ねた。指先が男の手の甲を撫でる。二人は連れ立って出てきて、歩きだした。男の半歩前を歩くまち子は肩を落とし、しきりに後ろを振り向く。男を見上げてほっとした顔になる。二人は二ブロック先の駐車場に入り、黒いRV車に乗りこんだ。
 スポーツクラブの受付の女性が申込み用紙をカウンターに置いた。目的はダイエットですね、既往症の欄はできるだけ細かくご記入ください。高血圧とか糖尿病とかありませんか。何かあれば困りますから正直に書いてくださいね、と執拗に言いたてる。短パンと白いポロシャツを着た別の女性が案内した小部屋に色の浅黒い短髪の男がいた。こちらでは、各自の遺伝子に基づいたダイエット方法を提案します。痩せるための潜在能力を目覚めさせます。単なるスポーツジムではありません。食事はすべてこちらのメニューどおりにしてください。料金は週三回三カ月で七十万円ですが必ず効果がでます。我々を信じてください。ただ痩せるだけでなく理想の体型をつくっていきます。男はボディービルダーのような気持ち悪い笑顔でとうとうと説明を続けた。

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