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小説【まち子の指先】(3)

    急

 黄色い銀杏の葉が強い風で舞い、吹き溜まりに積み重なっていく。まち子がバケツを抱えて店から出てきた。バケツの中のススキが朝の光を浴びて輝いていた。夏にずいぶん痩せてしまったまち子は、もとに戻ったようだ。ススキの陰にあるまち子の右顔はとても柔らかい表情だった。オフィスにいた人たちがおはようございます、と挨拶してくる。女性たちは日々親切になっていった。ほんとに痩せたなあ、と羨ましさを声ににじませて、腹の出た営業の先輩が肩を叩く。営業ミーティングで、今月のトップは島津さんです、と部長がにこやかにみんなに告げた。おお、という声があちこちから上がる。K社の女性MDが次々に新しい企画に生地を採用してくれた。重い営業鞄はきちんと整理され即座にものを出し入れできる。iPadを使った独自の提案方法を営業部長がみんなに教えるようにと言ってきた。


 はやく訪れる夕闇が年の瀬の近づきを教えてくれる。まち子の店内には客が誰もいない。正面に立ったまち子は少し顔をあげて、にこやかに笑いかけてきた。もちろん、男性でも構いませんが、スクールでは女性どうしの会話を楽しんでおられるので、差し支えなければ、料金はお高くなりますが、マンツーマンにさせていただく方がいいと思います。月に二回、材料費込みで一回二万円です。よろしいですか。基本的に第一、第三水曜日でいかがでしょう、月曜と木曜は女性の方たちが来られるので。いえ、金曜日は週末を控えて花材が揃わない場合もありますから。では、さっそく明日からいたしましょう、よろしくお願いいたします。まち子は優雅に辞儀をした。耳朶が拾うまち子の声は、鼓膜をすりぬけて細い管をなめらかにすべり脳内に到達した。声音はいつまでも細胞をふるわせ、予期せぬときに、大きく響きわたり頭蓋に反射して増幅する。もはや声とは言えない音の重なりが神経伝達を遮断し身動きできなくした。まち子の左の横顔は、けっして逃がさないと妖しく瞳を輝かせる。まち子の仕草には透明な蜘蛛の糸の粘着性があり、がんじがらめにする。春にかいだと同じ薔薇と百合がブレンドされたまち子の匂いが鼻腔の奥深くに染みつき、それが引きがねとなって、素肌の手ざわりが蘇った。
 雲間からのぞく力強い朝の太陽が、細く冷たい雨を銀色に煌めかせる。常緑樹の葉も瑞々しい。いつもと同じ街なのに、何もかもが新しい。K社のMDが、何かいいことがあるの、もしクリスマスに予定がなかったら一緒にどう、という耳打ちは脳内のまち子の声に弾き返される。


 あの夜と同じ半月が雨上がりの街を彩り、人々はせわしげに行き交う。どこかで、クリスマスソングが鳴っている。まち子の店先にもクリスマスリースが飾られていた。店内のまち子は親しげな微笑を投げてくる。いらっしゃいませ、と言いながらまち子は店の鍵を閉めた。とたんに店内の花がいっせいに香りたつ。お教室は二階です。揺れる丸い尻が幅の狭いきつい階段で顔のすぐそばにあり、まち子の匂いがからみつく。光沢のある薄紫色のシルクは伸びることなく尻の形をくっきりと浮き上がらせる。今日はクリスマスが近いので、それにあう花をあらかじめ選んでいます。次からはご自分の好みのものでアレンジいたしましょう。薄茶色の無垢材でできた室内には、花に混じって木が香っている。すべての花の色を引き立たせる木の色は、ひとも落ち着かせる。深く吸いこみ吐かれた息は清められていく。ここにかけてください。基本のラウンドという形でつくっていきます。小さいアレンジですが、そのかわり高価なお花を使います。斜め後ろにたったまち子がテーブルの上の葉っぱを指先でつまむ。これらのリーフを器に沿わせて入れて外形を決めましょう。本場のイギリスでは五つのポイントをつくります。クリスマスらしい星形になりますね。まち子は一本の葉の茎を鋏でカットした。

 右後ろからおおいかぶさるような体勢で、葉を器に入れた。触れるか触れないかの距離だ。同じようにしてくださいという声が耳のすぐそばでした。葉を持った左手中指のいびつな形にまち子は気づくだろうか。葉の間に薔薇のつぼみを入れていく。真ん中の花をまち子は吟味する。真紅の薔薇をそっとつまみあげてかかげた。これにしましょう。この花の長さで全体の高さが決まります。だいたいこれくらいですね、切ってください。そうです。真ん中に、ゆっくり、そぉーっと、入れて、ください。息とともにでたまち子の声はかすれる。あとは、ぐるりと葉と花を中心に向かって……。あ、ちょっと待って。その花をそこに入れると真ん中の花がひきたたないわ。まち子はとっさに手を伸ばして花を持っていた手の甲に触れた。右肩にまち子のやわらかい胸があたった。まち子の左側の顔が真横にある。冷たい光をたたえた目が花を見つめる。まち子は花をつまんだままで静止した手をなぞる。一本一本の指にやわらかな指のはらが這いまわる。爪の先端を二本の指ではさみこみ、すりあげた。

 あなたよね? まち子は至近距離で見つめてきた。左目が一瞬金色に光り、どんどん赤みを帯びていく。どんなに痩せたって指の骨組みと爪の形は変わらないのよ。
 僕は。

(了)

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