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「ひきだす」という言葉。

「力をひきだす」とか「美しさをひきだす」っていう表現ってよくある。

自分でも、やりたいこととか提供できることとして、「本来の力をひきだす」というような言葉を使っていることもある。

そうなんだけどね?

その人の、そのものの、本来持っている力や美しさを、持っているのに出てきていないものを、出しきれるようにするっていう考え方はすごい好きなんだけど。
でも、だからこそ、「ひきだす」というような言い方はすごくおこがましいのではないかと思ったりもするのだ。

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「人」の力とか美しさって、結局その人が使う気にならなければ出てこないと思う。
他人がひきだせるというものではないのでは?と。

すでに見えているような、表面的なところを見えやすくするとかは、他人の力でもできるかなと思うけど。なので他人がひきだしているように見えるものは、表面的な部分なのかなぁとも思う。見た目の美しさ整えるのとか、わかりやすい能力を使えるようにするみたいなこと。
表面的なこと以上に何かひきだされるときって、きっかけは他人からの何かではあっても、本人がその力なり美しさなりを出そうとしたからではないのかな。

単に能力がすごいとか、見た目の美しさとかだけではない、エネルギーのってる強さとかきれいさが足されてるような状態あるじゃない?
それが、本来の力とか美しさとかが発揮されてすばらしい状態ではないかと思っている。で、その部分は本人からしか出せないのでは。

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「もの」の場合は、基本人が余計に手をかけたりせずに、自然のままとか、つくられた完成系のままとかがきれいなのではないか?と思ってしまう。
たとえば花とか雪の結晶とか、人の手でつくったものはかなわない美しさだよね?自然の中の黄金率とか神秘。
人工的なものも、計算されつくしてつくられた機能美なんかは、余計なもの足すとかありえないと思うし、無駄に多機能なものより単機能のシンプルさが有能であり美しいと思う。

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でも一方で、ほかの人との相乗効果とか、偶発的な何かがあるとか、その人だけでは出せないものが他人がきっかけで出てくる場合はある。

ものでも、いろんな何かを足したりした全体として美しいものもあるし、生け花みたいな自然の素材の美しさを際立たせるようなのもあるし、料理とかは素材のすばらしさ以上のおいしさ美しさってあるしなぁ、とも思う。

あと、力や美しさが出やすい、その人やものが活きる環境を整えるとか、阻害しないとかは、できることだとは思うけど。ひきだす、とは違う気もするけども。

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やりたいこととかビジョンミッション的なものを書くときに、なんか違うなぁと思いながらわかりやすいからとときどき書いてしまうのだけど、でもやっぱ違和感あるんだな。
なんて表現するのがしっくりくるんだろう?と考えてみたいと思う。



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