慣れていないとできないなら、いつできるようになる?

慣れてないとできないのだろうか、慣れてないからできないのだなと思ってるのでいいのだろうか、とこの記事を見て思った。

新刊『四肢奮迅』のサイン会で、ある男性の行動が会場にいる人々の胸を打った話。

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慣れていたから、できた。
慣れていないと、難しい。

これって、障がい者の方への支援だけでなく、どんなことでも同じだと思う。
慣れていないと難しく感じるのは、そのとおりだと思うし、実際やるとしてもわからないことがあったりしてできないことも多いだろう。

だからといって、慣れてないから難しいと言って、やらないままでいたら、いつ慣れる?
できないからやらなかったら、いつできるようになる?
その理屈だといつまでたってもやらなくて慣れなくてできないままだ。

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言ってくれたらやるのに、具体的にやることわかればわかるのに、という人も多いと思う。
仕事とかなら、必要なら言うよね。(逆に、その人に頼む必要性がなければ言わない。仕事取りたい人が取れなら言う必要ない。)

だけど、助けてもらいたいときって、その人からは言いづらいだろう。相手が、助けようかなとか助けてもいいよって思ってるかどうかわからない。頼んでいいのか、頼める相手なのかわからない。
助けてもらいたいと思ってても、頼む必要はあっても、具体的に言えても、だから言うべきだというのはつらいと思う。頼んで、断られたり困られたり嫌がられたりするのって怖いと思う。

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やることがわからなくても、何かできますか?って言える人もいる。聞かなくてもやれそうなことをやってみる人もいる。
それは、慣れてる慣れてないに関係なく、やる人はやる。

機会があればやるかもしれない?たくさん機会があればやれる可能性がある?
それは確かにそうなんだけど、それでもやらない人はやらないし、機会が少なくてもやる人はやる。

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やれない人がだめだ、と言いたいわけではない。
やれる人がいるんだから、同じようにやるべきだ、とも言いたくない。

気軽にそういうことができる人と、ハードル高く感じる人とがいるし、ただそういう違いがあるだけだ。

だからといって、やらなくて、できなくて、だって慣れてないから無理だもんって言っててもできるようにはならない。
それをやる気がないとか責めてても、一歩踏み出せるようにはならない。

どうしたら、ちょっとでもできるようになるか、一歩踏み出せるようになるか、を考えたいよね。
それは、できる人できない人どちらかが、または助けてほしい人が考えるのではなく、誰か(どの立場か)の人だけががんばるのではなく、お互い歩み寄れるように、お互いちょっとずつ今より一歩ずつがんばるように。

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自分のために一歩踏み出すのでさえなかなかできないこともあるのに、人のために&何をしたらいいかもよぬわからないようなときの一歩はハードル高いだろう。
逆に、人のためにだから踏み出せる人もいるだろうけど。

どうしたらいいかわからなくても、何かできますかって聞くとか、何か手伝いたいなオーラ出して近くに行ってみるとか、手伝ってる人の手伝いしてみるとか、大勢で手伝ってる中に巻き込まれにいくとか、何か今までやってないけど自分にもできそうなことをやってみれるといいなと思う。

手助けに慣れてる人も、余裕があれば1人でやってしまわずにまわりを巻き込んでみてくれたらいいなと思う。簡単なこと頼むとか。

手助けしてほしい人も、可能ならば声あげてもらえたらなとは思う。言いづらいかもしれないけど。どうしたら助かるのかがわからないのも事実だし、逆にわからないまま手出しされたら危ないこともあるだろうから。

こうできたらいいなというのは、ただの例だけど、相手がこう考えてるかもしれないと想像しつつ、大きな一歩でなくても半歩でもすり足くらいでも歩みよりあいたいなぁと。

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さらっと手助けする行動が、感動したと語られるのでなく当たり前になるくらいに、
みんながお互いちょっとずつできることで助けあったり頼りあったりする社会にできるといいな。
そうなるように、自分から身近なところからだけでも少しずつやっていきたいと思う。


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