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人生に当事者意識のない人へ

意味わかんないおっさんの戯言のメッセージで中心になっている言葉

投げられた石にとって、登っていくことが良いことでもなければ、落ちていくことが悪いことでもない

マルクス・アウレリウス

バンタンの卒業式で卒業式で「おめでとうございます」と言うことのカウンターとして、成田悠輔があげた言葉だ。とても皮肉に満ちていて、引き込まれる内容だった。ひろゆきとも似てるが、成田さんの声はぼーっとしていると音楽みたいに流れていってしまい、聞き終わった後には頭がよくなった充実感があるから危険なものである。

今回、この言葉を上げたのは先日友人との会話で「人生の当事者があんまりないんだよねー、」と言われたからである。人生の当事者意識という言葉が、やけに引っかかった。ときどき私も、なにか恥ずかしいことをしちゃったときに、「あー、やっちゃってるよ俺」とか思いながら、それを友達に笑ってもらって、ある意味で自分の事柄を部外者としてその事象を捉えて精神を保ってきた部分もある。そういう意味では、自分も当事者意識をわざとなくすことでうまく対処してきたんだと思う。でもこれが、「人生」に対して当事者意識がないとなると話は別である。そこで、冒頭の言葉が浮かんだ。その友人はここで言われる石みたいだ。手から投げられた石は物理法則に従って放物線を描き、地上に落下していく。物理的に言えば、「初速度」と「角度」さえ自明であれば、実際に投げずとも解が導き出される。成田悠輔の出典した意図とは違うが、人生は実際この石みたいなものだと言う人もいるだろう。

しかし、たとえなげられる石であったとしても、上にだか、下にだか、横にだかわからないけど、意思をもって動いた人を自分は応援したい。石の話だか、人の話だか、よくわかんなくなってしまったが、そんなことはどうでもいい、投げた側の物理法則にしたがってちゃ予測可能な人生しか歩めない、それが環境なのか、国なのか、親なのかわかんないけど、その予測した未来が自分が進みたい人生じゃなかったらそこから逸脱する必要がある。そんな簡単に突破できるような振りほどけれるようなことじゃないけど、きっと行動すれば変えれるはずだと思う。きっと石だって風や天候によって理論では導けない結果をだす時がある。あなたの風になる人は誰なのか。人生に当事者意識をもたなきゃその答えは見つけられない。


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