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動物キライな人間の肩身を広げてもいいですか。

夫の愛している猫、が嫌いである。

もっというと動物全般、生物が苦手で、生き物に対する知識と免疫がない。にも関わらず友人やコミュニティ仲間、特に夫の動物愛により、動物嫌いな人間としての肩身が狭くなってきた。

動物嫌いと書き続けるのは気が引けるので、“動物は苦手”で書き進めるが、いつからこんなに動物苦手人間は、肩身が狭くなったのだろうか。
先日Twitterでもつぶやいたが、どこもかしこも猫様様である。


確かに猫の写真も動画も癒されるのは間違いないが、延々リピートされる猫動画を見る夫に共感ができない。
空前の猫ブームが原因なのだろうか。
もちろんブームもあるだろうが、この一言のインパクトではないか。

動物好きに悪い人はいない

これを言ったのは、一体どこのどなた?

確かに、動物好きの人が纏う雰囲気や表情は、穏やかで優しい印象がある(気がする)。あながち間違いじゃなさそうなのが痛いところ。
動物が苦手だという人は、多少神経質に見える節もある(私調べ)。

因みに動物が苦手な理由は、匂いと怖さ。幼い時に野犬に追われたり、吠えられたりしたことから、今でも怖い。だけど、意外と犬や猫に嫌われないのは不思議。苦手と言えない時に、ごまかしが利くからありがたい。

ペットという観点で言えば、“命に責任を持てない”から。今は3人家族だが、もともと一人暮歴が長く、自分が生きていくだけでもいっぱいいっぱいなのに、他の命まで無理。守れないものに手を出さない優しさを持ってると思って頂きたい。

問題は、愛する夫の溺愛するものが動物であること。特に猫。
今まで直面することのなかったことが降りかかってくる。猫カフェに行きたい、動物園や水族館の年パス買って行きたい、猫島に行きたいなどなど。
行ってくればいい。の一言で終了のはずが、“一緒に行きたい”となるから、さぁ大変。

列挙した場所は全部行った。Twitterのアイコンにしているインコも、動物園に行った時のものだが、どこに行ったのかすら忘れてしまうくらい興味がない。

体験を重ねてもなお、好きになれない動物。
写真におさめる被写体としては申し分ないのだが、動いてる動物は苦手なまま。とはいえ、動物や生物全般の生態については興味が出てきたから、身近な人の存在は稀有。

改めて考えてみたんだけど、半径10メートル内の幸せを追求することを主眼においてる自分にとって、人ではなく動物はずいぶん遠くの存在。そのうえ、命があるからこそ、命は守らねばならないという責務を感じる。責任を負えないのであれば、安易に請け負うことはできないし、優しさの一種でもある。

無理やり動物苦手を治そうとするよりも、動物好き勢力がはびこる中で、動物苦手な人が“動物キライなんです”と言っても許されるよう、少し肩身を広げてもいいですか。

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