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劇的回心コンプレックス

回心(かいしん)とは、改心とは違ってキリスト教用語なのですが、神様を信じていない状態から、神様を信じる状態へと変化することを指します。
心の向きが180度回って、それまでとは全く別の方向を向く、という意味です。
平たくいうと、クリスチャンになること、です。

キリスト教用語では、「神様ってこんなにすごいんだよ、わたしこういう体験したもん」という経験談のことを、「証(あかし)」といいます。そして、「救いの証」とか「癒しの証」といった、いわゆる”鉄板の証ネタ”というものが存在します。
自分の証を話したり、人の証を聞くことで、「そんな体験したんだ、すごいね」とか、「わたしも似たようなことがあったよ」とか、「そういう証を聞くと、力づけられる」とか、そういう交流の仕方をします。他人の成功体験や闘病体験を聞くことに近いのだと思います。

わたしはずっと長いこと、「劇的に回心した救いの証」に対して、ものすごいコンプレックスを持っていました。
それはどんなものかというと、「わたしはこれまで、神様を知らずに人生を歩んでいた。楽しかったけど、虚しかった。あるとき、これこれでどうしても行き詰まって苦しかった時にキリスト教に出会った。聖書を読むうちに、神様に祈るようになった。ある日祈って聖書を読んでいると、ある箇所が目に飛び込んできた。そのとき、わたしは聖書の神様が自分の神様だと悟った。そうして神様を受け入れたら、目の前の世界が全く違って見えるようになった。奇跡だ。わたしは全く新しい人生を歩み出した」みたいなものです。

人生の虚しさ、辛さ、悲しさ、寂しさ、そういったものが、神様と出会って一変した。
奇跡のような変化が起こった。
こんなすばらしいことがわたしの人生に起きるなんて。

そういう、とてもダイナミックな、劇的な、ドラマのような、そういう救いの証を持つ人が、世の中には一定数います。

わたしはそういう話が苦手でした。

わたしには、そういう証がないからです。

それは別に、自分がクリスチャンとして劣っているとか、実は救われていないとか、そう言うことではなく、単に自分は神様とそういう劇的な出会い方をしていないだけです。


小さい頃から教会に行って神様の話を聞いて育ったわたしにとって、神様は水や空気のような存在です。
それは、今でもずっとそうです。

人間が生きていくのに、水も空気も不可欠です。
でも、たとえば現代日本に住んでいて、水や空気を得るのに苦労している人はいるでしょうか。日本に住んでいれば(そして障害や疾患によるのでなければ)、水を飲めずに命を失う人はいないでしょう。息をする空気がなくて命を失う人はいないでしょう。
そのような社会で、常に息が吸えること、いつでも水が飲めることに、涙を流して感動する人がいるでしょうか。

わたしにとって、神様がいるのは当たり前で、神様なしで生きられないのは当たり前で、イエス様の十字架による購いがなければ救われていなかったと知っていて感謝していても、やっぱりそれは当たり前のことなのです。
水道局の人の働きに感謝するように、酸素を取り入れる体の仕組みに驚嘆するように、神様による救いの計画に感謝し驚きはしても、それはある意味で当然のこととして、わたしのそばに常にあることです。

わたしは水を飲むように、空気を吸うように、イエス様による救いを受け入れました。もちろん、決心した当時は、その時なりの一大決心ではありましたが、受け入れること自体に葛藤は全くありませんでした。

だから、「水!やばい!!水がないと人は死ぬ!水おいしい!!」というドラマティックな体験はしたことがありまでん。もちろん、世界は広いので、水のおいしさに感動してその時の体験をいつまでも大切に思う人もいるでしょう。そのこと自体は、すばらしいことだと思います。そういう体験をした人が、水の美味しさを知らない人に伝えるのは、すばらしいことです。
とはいえ、わたしは物心ついたころから水を飲んでいるので、「なんで水のおいしさに感動しないの? 水を飲んだ人ならだれでも感動するでしょ? 人生かわっちゃうでしょ?」と言われると、うーんそうかな…… と引いてしまう気持ちがあります。

だからわたしは、劇的回心コンプレックスでした。
今でも、感動を強要してくるタイプの人は苦手です。

もちろんわかっています。
ある程度年齢がいって初めて神様を知った人は、衝撃が大きいということも、クリスチャン歴の短い人ほど、自分の体験を中心に話してしまうことも。
わたしだって、自分の体験からあまりにもかけ離れたことは、頭では理解できても心情的には想像が難しいことがたくさんあります。

ポジティブな体験は多くの人と共有したい、みんなもきっとわかってくれるはず、という思いは、大切にしたいです。
一方で、相手がそれに共感しないかもしれないことも想定しておきたいし、共感されないことが相手や自分の落ち度でないことも、きちんと頭にいれておきたいなあと思います。

元気なときは、共感の強要もさらりと受け流せるのですが、ちょっと疲れていると、つい皮肉を返したくなるのでね。でも喜んでいる相手に水を差すようなことは、できればしたくないじゃないですか。


劇的な回心をしたみなさん、その証をシェアする時に、必ずしも全員が同じような経緯で救われたのではないということを、頭の隅に入れておいてください。
これは水や空気のありがたさが当たり前になっている人間からの、贅沢なお願いです。

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