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【読書】「カンマの女王」

職業人のインタビューや小説、いわゆる「お仕事本」が好きだ。その職業に従事している者でしか知り得ない業界の舞台裏や、日々の小さな気づきを分けてもらうのが好きだ。

とりわけ、その職業を選んだ経緯を知るのが大好物だ。幼少の頃から興味があったのか? どんな縁がきっかけでその世界に入ったのか? 

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カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話 柏書房 2020/12 メアリ ノリス (著), 有好 宏文 (翻訳)

本書はアメリカの老舗雑誌『ニューヨーカー』の校正係、メアリ・ノリスによるエッセイである。

ノリスは、校正係という「天職」に就くまでに、実にたくさんの仕事を経験している。プールの足指点検係(水虫がないか調べるもの)、テレビの衣装レンタル会社、チーズ工場での包装、牛乳配達人、レストランの皿洗い…遂にはタクシー運転手の免許まで取ろうとして、見かねた知人が『ニューヨーカー』での仕事を紹介した。その知人とは、『ニューヨーカー』の取締役だった。

面接は、仕事を得ようと嘘をつく必要がなかった。編集資料室の本の匂いを嗅いだとたん、ここが居場所だと感じた。運命の出会い。のちの校正の女王の誕生である。

片鱗はすでに垣間見えていた。ノリスは大学時代、取締役のオフィスの壁にかかった展示物に、文法の誤りを見つけていた。そして1977年の夏、『ニューヨーカー』に掲載されていた一篇の記事と出会う。ジョン・マクフィーの『アラスカ原野行』である。ノリスは、言葉が正確に、愛を込めて置かれていることに衝撃を受ける。そして、あるひとつの単語に魅了される。

その記事は、家の窓から見えるアラスカの雄大な自然について書かれていた。

その窓は、提喩(シネクドキ)であり、イーグルそのものだーそれはレンズであり、単眼望遠鏡であり、荒野を切り取って、絶景を映し出す。(ジョン・マクフィー『アラスカ原野行』)

synecdocheーシネクドキー<提喩>。彼女はその言葉にうっとりとした。

「ビスケットをもらうと自分の体を抱きしめて空中に浮かぶ、あの漫画の犬のような感じだった。この単語は描いている対象ーアラスカの原野ーだけでなく、文章自体をも覗きこむ窓だった。マクフィーが耳慣れない単語を使うとき、それが彼の言いたいことを表現できる唯一の言葉なのだと思っていい。彼は言葉を堪能し、音節を口のなかで転がしている。まるで言葉という食べ物に、舌なめずりするかのように。」(序章 カンマの女王の告白)

のちの校正係の、「ことばへの情熱」が垣間見られる箇所である。私も、男性がネクタイを緩める仕草よりも、腕に浮かぶ血管よりも、「言葉」に感じてしまう変態なので、この気持ちはよく分かる。「これしかない」という一語にたどり着くまでの逡巡を想像しただけでゾクゾクする。

(ちなみに、提喩とは部分が全体を表現している、というような意味である。「舞台」のことを「板」と呼ぶような喩えのことである。)

職業人の告白を聞くのが好きだ。その仕事をしている人にしか分からないことを教えてもらうのが好きだ。なぜだろう。なぜだか分からないが、好きなのだ。

数ある職業の中から、なぜその仕事を選んだのか。どんなことを感じながら働いているのか。それを知ることで、自分が「選ばなかった人生」を間接的に生きてみたいと思うのだろうか? だとしたら、私は相当の欲張りだ。

それでも、私は「お仕事本」を手に取ってしまう。読書を通して数多の人生を、生きてみたいと願ってしまうのだ。

#読書 #カンマの女王 #メアリ・ノリス #有好宏文

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