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哲学対話体験記#01 「コロナとSEX」,または,思いがけない考えに出会う場との出会いについて

哲学対話との出会いと,それを通してかんがえたさまざまなことについて書いていく。

書くことの目的は,「恋愛依存」や「共依存」に人生をからめとられてこまっていた私が,哲学対話のある生活でなにを見つけていっているのか,言葉にして眺めること。

私が初めて参加した哲学対話のタイトルは「コロナとSEX」,2020年4月24日の夜,オンラインだった。

それ以前,私の暮らしの中で,誰かとセックスについて話す機会はほとんどなかった。そのため,参加者の方々が男女問わず,自分の性癖や気になることについて,あけっぴろげに「それらの言葉(※セックス中に行われる様々な行為の名前や,身体部位の名前など)」を口にして話すことには軽く驚いた。同時に貴重だと感じた。話せるのには理由があって,ルールの中に「なんでも話して良い」とか,「相手を否定しない」とかいうのがあった。その他,「話を遮られずに対話するやりかた」や「緊急サイン」の共有など,終始安全な場づくりを目指して気遣いがされている様子があった。

私は,自分で「恋愛依存症」ではないかと踏む,自らのここ数年の"問題"について,ひとりで考え込んでいることに煮詰まりを憶えており,「コロナとSEX」と銘打たれた「哲学対話」という場で,なにか新しい体験をしてみたいなと考えていた。

その場で話されたことについてはあまり憶えていない。いくつかTweetしていたので,それを貼り付けておく。

まず「これは娯楽だ」と言っているので,一回目から,かなり楽しかったらしい。あとは,性について話ができたことで,ひとりで考えているのとはまた違った気づきが色々あったみたいだ。

参加後に主催の方へ送っていたお礼メールの中にも,自分が持ち帰った「今後考えたいこと」のリストが含まれていたので(tweetとの重複があるが),それも眺めてみる。

「•会えなくて消える恋と,続く恋の違い
•エロの向こうに求めているもの,得られる可能性のあるものとは(人によって違うならば,どんなものがあるのか。→自分にとって,それはなんなのか。そう思う自分は,どんな自分なのか)
※承認欲求ということばが出ていましたが,むず痒くもうすこし眺めたい感じがありました
•寂しさってなに(会えなくても寂しくない,会えても寂しいってことがあったりするのはつまりどういうこと)
•フェロモンってなんなの?」

哲学対話で「問を立てる」というのをみて,真似して私の知りたいこと,他者にきいてみたいこと,のアイデアを,初めて出してみたんだな。

それから,「そう思う自分は,どんな自分なのか」と,他者と異なることをヒントに自分を眺めようとする態度は,自分に最初からあったものなんだな。ということもわかった。

さらに,「承認欲求」という,対話の中で使われた言葉について,「その言葉は,どのような意味で使われているのか」が気になった,この感じも今と変わらない。

それから,主催者さんへ,私はこうも書いていた。

「セックスは愛情表現じゃなくて信頼関係が面白くする娯楽,という感覚でいいのかもと思えたのも自分には新鮮でした。薄く気づいていたけど抵抗があったのかもしれません。また思いがけない考えにたどり着いたりしたいです。セックスやコミュニケーションについて対話できるのを楽しみにしています。」

これは社交辞令ではなくて,それどころか,4月24日から哲学対話にはまって,私は何十回,何十時間,その場に身を置いたか分からない。文字通り寝食を削って(いや,ご飯は食べていたか),異常と思える多大な時間をそこに費やした(そしてそういう人は,私独りではないのだ)。

なぜそこまでの時間を哲学対話にぶっ込むのか。

私の場合,はじめて対話に出た日からいままでずっと,哲学対話(※2)が,自分にとって重要な気づきを得られる場でありつづけているためである。(※2 ここでさす「哲学対話」には「オンライン哲学対話」と,その後の「日常生活における思索」,それから「Twitterを使っての考えごとのメモ」の3つが含まれる)

気づきはどんどん空に放たれていく(つまり忘れていく)ので,できる範囲で振り返って,自分の考えの変遷を眺められるようにしたい。

そしていつか,「恋愛依存」や「共依存」に人生をからめとられてこまっている人達に,対話することで得られる効能みたいなことが,すっきり伝えられるようになったらいいな。