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ベトナムでBARを作りました。5年後、世界200ヶ国で、何かやってみたい人が集う拠点を作る。-Tatsuki

MAKERS U-18にはどんな人が集まっているのでしょう?6期生、三橋龍起さんに詳しく聞いてみましょう。

9期生エントリー受付終了!10期は2025年3月末開催予定。今冬情報解禁。
詳細はこちら▶https://u-18.makers-u.jp/

簡単に自己紹介をお願いします。

 三橋龍起です。神奈川県茅ヶ崎市生まれで、今はベトナムでBARのような店舗を作ってます。

 1店舗目がホーチミンに作った一番小さい店舗なんですけど、計23、24ヶ国のお客さんが来てくれて、そしたら他の場所にも作りたいってオファーをいただいたので、2店舗目と3店舗目を作りまして、現在3店舗運営中という形になります。

 今年3月の僕の誕生日に開いたので、今(取材日)はちょうど7ヶ月経ちましたね。

1店舗目 


2店舗目


3店舗目

どうしてBARを開こうと思ったんですか?

 直接のきっかけとしては自分の20歳の誕生日を意識した時にBARってかっこいいなと思っていた時にたまたまベトナムに旅行をして、色々な人に聞き回ってたら物件が見つかったので抑えて、始めました。

 目的としてはBARをやりたかったというより、世界中全部の国に拠点を作りたいって思ったのが始まりです。

 去年の2月にドバイに2ヶ月ぐらい行ったんですが、その時に100ヶ国の人と友達になろうって決めて実際103ヶ国の人と話せたんです。それで、世界は広いなとか、宗教とかも色々なものがあるなと思って、すごい面白いと思いました。日本にいた時にそういう人たちと触れ合ってこなかったので。

 そして、日本の人口が今後減っていって、65歳以上の方が人口の40%になるぞって時代が来る時に、東南アジアとかアフリカとかを見ていると、15年もすれば日本の平均所得とか抜いちゃうって時代があって。

 今後このまま日本が経済的に成長していくとかやっぱり考えにくいよねってなったときに、今はまだ、海外で日本の通貨が強い。それがあと10年とかは続くって考えた時に、今のうちにベトナムなどの東南アジアだったり、これから伸びていくアフリカや中東のあたりに事業を作っていけば、日本の貨幣価値や平均所得を他の国が抜いた時に、蒔いていた種が実って、外貨を稼ぎやすくなると思っていて。

 そうなった時に海外で仲間たちが集まれる、オフラインのハブを何か作りたいなと思って、最初に選んだ国がベトナムで、最初に選んだ事業形態がBARという形です。

 今後は、25歳までの5年ぐらいをかけて、200ヶ国でやっていこうかなと思っています。

200ヶ国って国連加盟国数を超えてますね。

 そうですね。でも、国際連盟に加入できてないコミュニティってたくさんあって、それを足したら多分200を超えてるんで、正確な国数だと忘れがちなんで、200って言うようにしました。

日本にいた時はどんな事業をされていたんですか?

 はい。日本で、MAKERS U-18に参加した時は株式会社Unpackedっていう、18歳以下の方々に向けてキャリアを見つける機会をサポートする会社を作っていました。

 主にイベントとして企業や行政の方をお呼びして対話する機会だったり、中高生が実際に企業の中に入り込んで3-4ヶ月一緒にプロジェクト・事業を一つ作るような取り組みをしていました。

 僕が高校2年生、17歳の時に立ち上げた会社で、僕は代表2021年の12月で辞めていて、今は別の方が代表として成長させてくれています。

高校生で会社を作ろうと思ったのは何かきっかけがあったんですか?

 僕が14歳、中学3年生の時にお父さんが亡くなってしまったのがやっぱり大きかったです。

 14歳の11月頃かな。ある日、受験勉強をしていたら、お父さんが頭が痛いって言って、20秒ぐらい倒れたんですよ。

 お父さんが元々消防士だったこともあって、僕が昔教わった簡単な救命救急を覚えてて、とりあえず回復の姿勢って言われるものにして、大丈夫かって声をかけました。10秒ぐらいしたら意識を取り戻して自分で立ったりしたんですけども、1回倒れてるので危ないなと思って、お母さんを起こして救急車を呼んでもらいました。

 その次の日に、成績が決まる一番大事な学校のテストがあったので僕はそのまま学校に行って、帰ってきた時に親から、「簡単な手術をするので5日ぐらい入院することになった。命に別状ないから大丈夫だよ。」って言われたんですけど。

 それから4日目の時に家に帰ったら親から電話があって、「ちょっと病院に来てほしい」って言われました。何となく察しました。

 妹を連れて病院に行ったんですけど、手術の合併症でもう意識が戻らないとその場で通告されて、延命処置をお医者さんの計らいでしてくれていて、おばあちゃんとか家族が来て、そのままその日の夜に亡くなりました。

 それが急だったのと、今まで結構わがまま言いながら育っていたので、なんか、ありがとうって言葉とか一言も言えずに亡くなってしまって、当時は全然実感がなかったです。悲しいとかよりはむしろ、頭の中で処理ができてなくて、普通に中学卒業して高校に入って、高校に入って半年ぐらいした時に、お父さんが亡くなったことが実感として湧いてきて、すごくつらくなって。そういう、つらいとかも友達に言うとどう考えても同情されるってわかっているし僕がそうしたくなかったので、結果的に溜め込んでいまいました。

 お父さんみたいなかっこいい人が、社会的にも尊敬していたので、尊敬している人が褒めてくれるから勉強を頑張ったりとか部活で部長やったりしてたんですけど、人生の何か、目指すべき目的が失われてしまって。

 そこからは何のために勉強してんだろうとか、何のために良い大学行こうとしてたんだろうとか、何のために塾行けばいいんだろうとかっていうのがわからなくなってしまって。

 それがつらくなって、母親とか妹もつらいと思うので相談できず、ちょっと素行不良になっちゃって、1年ぐらい毎日渋谷とかで遊んでました。

 そんな高校2年生の6月の時に、僕アトピー性皮膚炎がひどくて、1ヶ月入院した時に、暇だからニュース見てたんです。そしたら、同年代ぐらいの子が自殺してるニュースを3日連続ぐらい見てしまって。

 生きたかったお父さんがいるのに、一方で死にたくて死んでる人たちがいる。それは何か、勿体ないというかやるせないというか、そういう気持ちが僕の中で強くて。

 でも、僕も死にたい、つらいってその当時ずっと思ってたのでその気持ちはめっちゃわかりました。でもお父さんが残してくれた命だしもったいないというか、それはできないなっていうか、天国があるのかわからないけど、お父さんにそれは怒られてしまうっていうのが僕は強かったので、そういう意思決定はしなかったです。

 本当にガチで人生一度きりだってお父さんから学んだからこそ、自殺してる子たちとか、学校で毎日つらいとか生きる価値ねーって言ってる同年代の気持ちをもっと楽しめるようにしたいなって思いました。僕も毎日、死にたいつらいって夜寝る前に思って泣いていたので、夜寝る前に「明日も楽しみだな」と思えたら、人生どんなにいいことだろうかと思って。

 当時高校2年生で大学へは行くのが当たり前だと思ってたので、卒業まであと6年間ぐらいあるんですよね。あと6年は親のすねをかじり続けなければいけなくて、そのタイミングでもし母が亡くなったりとか僕が亡くなったりとかしたら、本当に後悔だけじゃ済まないし、マジで一生の不覚だなと思って。

 だからこそ、早い段階で社会と繋がりたかったし、誰かのためになるようなことをしたいなと思って色々調べてたら、高校生でインターンシップだったり、NPO・NGOに参画してる子たちがいて、最初は横文字が難しくて何のことかわかんなかったんですけども、そういう人たちに会ってみたり話してみたいなと思って、お小遣いを全部東京までの交通費に使ってイベントに色々参加して情報をキャッチアップしました。

 そこで出会った人に、今の話をそのまま伝えたら、「すごいじゃん。その気持ちかっけーじゃん」って言ってくれて。

 そういう、夢とか自分のやりたいこととか自分の人生語るのって、言っても馬鹿にされるもんだと思ってたんですよ。でも、僕よりも年齢が上の人たちが、僕よりも夢を笑いながらかっこよく言ってて、僕よりもすごい本気で、それに向かって本当に時間を費やしてるってのを見て、「夢を追うのってこんなにかっこいいんだ」って思って、自分もそういう人になりたいって憧れが強くなりました。

 ただ、僕の学校は週6あったのでインターンシップができない。なのでN高っていう通信制の高校に転学することを決めました。

 家庭的には結構学歴至上主義だったので親に本当ごめんと言ったんですけども、ただ、僕が人生でたぶん初めて進路とか自分のやりたいことを親に直接伝えたんですよ。偏差値や学力で適当に選ぶ感じが強かったので、それで親も納得してくれて。

 そこからインターンシップの機会をいただいたり、色々なプレゼンテーションとかイベントに参加して、グループワークとかで周りの人たちの言葉を引き出すように盛り上げていたら色々な仕事もいただいて、経験値を少しずつ色々な機会でいただいてから、教育やりたいなと思って仲間たちと会社を作りました。

ありがとうございます。今は店舗経営ということで教育事業からは離れられているんですか?

 はい、そうですね。

 そもそも、自分が一番嫌だったのが理不尽な先生だったんですね。

 僕が高校時代に付き合っていた彼女がすごくいい子でめちゃくちゃ美人だったんですけども、彼女はすごく性格が素敵なのに、成績が全然良くないって理由で先生から怒られたり、掃除であったり理不尽に言われたりしてたんですよ。

 僕は逆に授業中寝てるんですけども、学力的に滑り止めの学校に行ったので、1年半ぐらい寝てても、模試とか、定期テストとかで点数を取れてたんですね。僕が香水を付けていようが、ツーブロックにしていようが、何も言われなかった。

 それがすごくおかしいと思っていて、その自殺してしまう人の話も含め、教育に課題があると思ったので、約2-3年教育の事業をやってきました。

 ただ、環境が変わっていくにつれて、当時の自分の怒りとかモヤモヤとかやるせなさっていうのが払拭されていったんですね。僕個人として生きる上では、痛み・Painっていうのを感じなくなっていて。

 そうなった時に今一番自分がここだなと思ったのが海外に関してのことで。

 世界中の人が、夜寝る前に明日も楽しみだなと思って寝られるようにしたい。っていうのが僕が言ってたことなんですけど、僕の友達は99.9%日本人だったんですよ。繋がりを持てるような機会がなかったわけじゃなくてあったけれど自分が取らなかったっていうのがあったので、その取らなかった選択肢をもっと知りたいと思って、海外に行くことを決めました。

 海外に行く最初のきっかけも高校生の留学プログラムだったので、最初は高校生を海外に連れていくってところで教育に携わろうとも思ったんですけど、僕自身そこに対して経験も考え方もないし、コロナが終わったら留学プログラムは復活するしそもそも留学プログラムってある程度お金がないと行けない。結局昔とターゲットとか被ってしまうなと思っていたので、むしろ反対側の方にあるBARっていうのもいいなと思いました。

海外で何かしようということでBARに行き着いたんですね。

 はい。でも実際やってみてわかったんですけど、BARってお酒を飲みに来てるだけじゃなくて、情報を交換するためのハブとして駐在員の方が使ったりとか、ちょうどこの前も衆議院議員の方がいらっしゃったり、ハブとして機能してるんです。

 でも、オーナーがちゃんとしていて色々な人たちが集まれるBARはあるようでなかった。そして20代がやってるBARって海外では本当に少なかったので、そこに価値を感じてくれて、20-30人の日本人の方に来ていただいたり、それこそMAKERS U-18で出会った友達も多分5人くらい来てくれて、やりながらすごく意義があるなと思っています。

 僕自身も海外を回りながら色々な国の言語を学びたいっていうのもあるので、今自分がこれやってみたいな、これワクワクするなってところで、僕がいっぱいやりたいことの中で取捨選択して選んでるっていうのがあります。

 教育は僕が今やるよりも、5年後のタイミングで触れた方が価値として自分ができることが大きくなるなと。その間、僕は違う役割、日本人の人たちが海外に出たいってなった時に、一緒に共創できるような環境を開拓してっていうので、教育からかけ離れたBARっていう、基礎となるようなシンプルなビジネスモデルを選んでやっています。

25歳までに200ヶ国って話がありましたが、その後のイメージはありますか?

 僕の中では、もっともっと色々な世界とか、将来とかを計算しながら必要だと思うこと、彼らがやりたいことの共通項を見つけた教育をしたいなと思っています。さらにそれを慈善事業だけでやるんじゃなくて、マネタイズなど資本主義の土壌で勝てないと、実装の規模としては少ないなと思っています。、僕のフェーズで規模を大きくできるようになったタイミングで、教育に戻りたいと思っています。

 5年後は200ヶ国できた状態なので、それだと仮定したときに、本当に国際機関みたいな感じで、全部の国のことについて浅はかだと思うんですけど知識や経験が溜まっていると思うので、それを日本の小中高だったり、教育機関とコンタクトを取りながら共創していったりできればなと思っていたり。

 僕自身も200ヶ国事業を作っていけばキャッシュ的にも余裕を持てるんじゃないかなと思っているので、その資金をビジネスって形じゃなくて、教育事業に投資をしていったり、そういう形で繋がりを持っていこうかなと今は考えています。

 ベトナムでは1人、同年代の人がカレー屋さんをやるっていうので今奮闘していて、そういう人を各国10人ぐらい生むことができれば、200ヶ国10人で2000人の事業家が生まれる。そしたらすごく面白いことになるんじゃないかなと思っていて。

 25歳だと僕の友達とか、周りの人たちに影響を受ける同年代とかも、年齢的にいると思うので、彼らが海外行ってみたいとか何か事業を作りたい時の手段の一つとして、ベトナムだったりに彼らが起業できる環境、情報を得られる場所、話し合える場所を作りたいと思っています。

 それはもう教育プログラムとしてやるんじゃなくて、実際にやりたいと思ったらそこに対して機会だったりとか環境とか、僕が繋がったネットワークを提供していって、その後は彼らが自分の意思で決めて動くような場所にしたいなと思っていて。

 そのために、まずはまず200ヶ国の拠点を作って、赤字で潰れない事業を作っていくのを、この5年でやっていこうと思ってます。

 自分に連絡が取りたい方はこちらにご連絡ください!
 tatsuki@tatsukimitsuhashi.com

三橋さんの想いや理想、そこから湧き出る行動や挑戦、いかがでしたか?
引き続き、応援しています!

[取材日]2023/10/14
© 2023 Tatsuki Mitsuhashi&ETIC. All Rights Reserved.

<最後に>

▶︎MAKERS UNIVERSITY U-18について知りたい方へ
公式WEBサイトをぜひご確認ください。

▶︎MAKERS UNIVERSITY U-18のコンセプト
こちらのnoteに新キャッチコピーに込めた想いを綴らせていただきました。

▶︎他のMAKERS U-18生についても知りたい方へ
自分のスタイルで挑戦を続ける、カオスなまでに多様なMAKERS U-18生を紹介しています。これまで取材したメンバーをこちらにまとめておりますので、ぜひご覧ください。

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U-18革命児の皆さんの背中を押すための企画を随時開催いたします。こちらのnoteに開催予定のイベントスケジュールをまとめています。

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今後とも、応援よろしくお願いいたします。

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