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プリミティブな体験。

少し間が空いてしまいましたが、先日イベントやった時の一コマ。

端材と道具を並べておいて、やってきた人(主に子供達)に、自由に使わせるということをやってました。例えばワークショップを企画すると、ゴールとなる完成形があって、それに向かっていくことになりますが、それに比べると手抜きというか雑な企画ではあります。が、それがものすごく面白かった。子供が寄ってくるのはなんとなく予想はしていたのですが、中には「使ったことがない道具なので体験してみたい」という大人もいたり、子供に道具の使い方を教えてるつもりが、横で付き添ってる親御さんも聞き入っていたりして、「体験」の価値はこんなところにもあることを実感しました。

そんな大したことにはならないだろうとタカをくくっていた部分はあるのですが、太い釘を打って材料を割ってしまう子、頑張って大作を作ってしまう子、もちろんすぐに飽きてしまう子もいたりと、いろんなドラマが繰り広げられていました。

その中でとりわけ印象に残ったのが、「消防車作りたい!」と言ってきた子。最初の一声ではこちらのはるか斜め上をいく発想に、私も一緒にいた親御さんもただ面食らってたのですが、そうしている間に材料を集めて、それっぽく見立ててくれる。そうなったら出来るだけいい見栄えになるようにサポートするしかないです。やや意地になってでも。

最初の「消防車!」の時点で、車輪どうするんだとか何を再現させるんだとか頭の中をいろんなことが巡るのだけれども、そこでうっかり「それは無理だよ〜」と口走ってしまったらその時点でその子にとっては、そこにいた大人たちが「ツマラナイ」か、工作自体が「ツマラナイもの」になってしまうかもしれないし、極端な話、それがトラウマになりえるのだなと、そんなことを考えてしまいました。

その子は途中で材料を割ってしまったり、若干飽きてしまった親御さんのピリピリとしたオーラも感じながらも、なんとか形を作って帰られました。不細工かもしれないけれども、あり合わせの端材でやろうとして、最後までやったことが偉い。

大きいもの小さいもの、いろんなものが作られていったけれど、こちらから完成形を示したものは一切なく、それぞれが自分自身でゴールを決めて、そこに向かっていたこと、これはモノの大小関係なく、等しく偉大なことだと思います。これは声を大にして言いたい。こういうプリミティブな体験ほんと大事。

子供達がこういう時にものすごく集中するのを横で見ていて驚くのですが、たぶんこれって「遊び」なんですよね。ルールとかいろんな決まりとかゴールはもともと決められてなくて、自分で決めて、自分で楽しむ。遊びって本来そういうことだったのではないかなと思います。

そして、いろんな形で示されるゴール(=作りたい形)に、やや意地になりながら実現の道筋を(ほぼ即答で)示す作業も、制約なんて関係ない、普段考えもしない自由すぎる発想ゆえに、いいトレーニングだったと思うのです。いやあ面白かった。

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